築城町長 新川 久三
飼料米を除き、ほとんど秋の収穫を終え、菊花香る季節となりました。また朝方は冷気を感ずる季節ともなりました。
■宇留津城陥落
天正14(1586)年11月7日に豊臣秀吉が九州を征服するための第一戦が宇留津城でありました。今月はその話をしましょう。
豊臣軍の小早川隆景、毛利元長、吉川経言の中国勢25,000騎は苅田の松山に陣を張り、秀吉の検使300も陣を移しました。霜月七日の鶏鳴に中国勢が宇留津城に向け出立、さらに黒田、馬ヶ嶽の長野、宗像と合わせて28,000余騎は辰の刻に宇留津表に陣を張ります。ここで毛利元長と吉川経言は父元春が病のため松山から小倉へ渡り、宇留津城攻めには加わりませんでした。
宇留津城は東に海、南北は深田の濠がある地形です。南方を黒田、長野、北は小早川、西は吉川勢が陣を分け攻め入りましたが難航し、兵糧攻めにかかります。その矢先、一匹の白い犬が濠から城内へ行くのを黒田勢が見逃しませんでした。黒田節で有名な母里太兵衛が犬に続いて一番に、井上九郎右衛門、栗山四郎右衛門、後藤又兵衛(大佛次郎の乞食大将で有名)、野村太郎兵衛、久野四兵衛、大野小弁(岩丸合戦で戦死)、吉田六郎太夫、吉田又助(宇都宮鎮房だまし討ちをしたときの酌係)、林太郎右衛門なども続いて次々と城内に侵入し、ついに宇留津城は1,000人が討ち死、焼死と全滅しました。さらに男女400人が生け捕られ、ことごとく磔(はりつけ)にされ、死骸は皆海に流されました。黒田は加来両将の首を桶に入れ姓名を記し大坂の秀吉の元に送り、秀吉から感状を授かったことが『黒田家譜』に記載されています。
ではなぜ、宇留津城主加来与次郎は大軍と戦ったのでしょうか。宇都宮鎮房をはじめ、朝倉の秋月種実、香春の高橋鑑種は薩摩と懇意にしていました。加来と高橋は同盟を結び、その証に与次郎は父孫兵衛(専順)を香春に住まわせます。与次郎は黒田・毛利方の調略、降伏に応じず籠城をし、あくまでも高橋との盟約を守りました。秀吉へ寝返らないで抵抗をした結果、全滅を来したわけです。
宇留津の白い犬の逸話はそれ以後語り継がれ、「宇留津には白い犬は育たない」として白い犬の飼育は敬遠されてきました。この宇留津城落城は『陰徳太平記』、『黒田家譜』、宇留津地区の伝承、『八津田村誌』からまとめた話です。
城井谷の宇都宮も2年半後には中津城で黒田の謀殺に遭い、400年続いた宇都宮の領主としての歴史は幕を閉じます。その後、黒田が10年余、細川が30年余、続いて小笠原が240年余、領主としてこの地方を治め、明治維新をむかえて武家政権の終えんとなりました。
■椎田地区小中一体型校の整備のために寄附を頂く
9月27日、有川泰子さんから、椎田地区小中一体型校(令和9年開校予定)の建設資金の一部として役立ててほしいと高額な寄附を頂きました。そして、10月5日には感謝状の贈呈を行いました。有川さん、有難うございました。
段々、向寒の季節となりますので町民の皆様には体調に気を付け、ご自愛いただきますようにお願いします。
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