文字サイズ
自治体の皆さまへ

ふるさと歴史発見

20/31

福岡県築上町

■第一四二回宇都宮氏館跡(やかたあと)の茶臼(ちゃうす)
ごく平凡で当たり前のことを「日常茶飯事」といいますが、ご飯を食べ、お茶を飲むことは現在では当たり前のように考えられています。お茶を飲む習慣は平安時代(九世紀)に留学僧が中国から日本に伝えましたが、一般に普及するのは戦国時代(十五世紀)以降のことです。平安時代は荒く粉砕した茶葉を湯釜で煮出し甘葛煎(あまづらせん)(ツタの樹液を煮詰めた甘味料)や漢方薬を加えて飲む、今で言うハーブティーのようなもので、寺院や宮中での儀式などに用いられました。
鎌倉時代になると、中国の宋に留学した臨済宗の開祖、栄西(ようさい)が抹茶法(茶葉を粉末にする)を日本に伝え、以後、禅宗や律宗(りっしゅう)の僧侶が全国に広めました。鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」には栄西が三代将軍、源実朝に抹茶を点て進上した際、茶を二日酔いの良薬と説明したことが記され、将軍が茶を知らなかったことがわかります。
南北朝時代から室町時代(十四世紀)になると、地方の有力武家の菩提寺でも茶の栽培が始まり、僧侶や貴族以外の武士の間で喫茶の習慣が広まります。そして戦国時代には人が集まる場所に茶屋が開かれ、一般庶民もお茶を飲むようになりました。
上図は抹茶を挽く茶臼の下臼(砂岩製)です。宇都宮氏館跡(松丸)の堀跡で発掘されました。粉挽臼(こなひきうす)に比べると小さく、直径は十八センチで、下臼に受け皿が付きます。上臼の中心軸棒を通す穴から茶葉を入れ、回転させ粉末にしました。茶臼は江戸時代以降に周縁平滑(しゅうえんへいかつ)になり茶葉をさらに細かい粉末に挽くことができるようになりますが、宇都宮氏館跡の茶臼は縁まで目が切られた古い特徴を残し、館が使用された南北朝時代から戦国時代のものと考えられます。
ところで古くから食物に関わる石臼には神仏が宿ると考えられ、役目を終えると、半分に割って魂抜きをしたといわれます。宇都宮氏館跡の茶臼も役目を終え、半分に割られたのでしょうか。
(文化財保護係馬場克幸)
※詳しくは本紙をご覧ください

※船迫窯跡公園では、今回紹介した茶臼や、十四世紀の居館「立屋敷遺跡」(本庄)出土の天目(てんもく)茶碗(破片)を展示しています。

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU