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芦屋歴史紀行 その三百二十八

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福岡県芦屋町

■維新前夜と山鹿流(3)

◇山鹿素水「烈士慕年壮心不已(れっしぼねんそうしんやまず)」
山鹿素行(そこう)の死後、大きく二つに分かれる山鹿流宗家。一つは平戸松浦藩。今一つは弘前津軽藩。この津軽山鹿流宗家に生まれた素水は元服を迎え、文化5(1808)年、津軽藩主・津軽寧親(やすちか)に拝謁(はいえつ)し、家督を相続。才気がありすぎた故か、壮年にして家督を譲り、隠居後、文政11(1828)年以降の生涯を諸国遍歴の旅に費やしている。江戸・京都では定住し、私塾を開いていたこともあった。
晩年、名を変えて京都に在住したおり、京都守護在番中にあった綾部藩主の九鬼隆都(くきたかひろ)に知られ、教えを授けるようになり、「田原藤兵衛」と名乗る。この変名は、素行が山鹿流の始祖(しそ)とした坂東の英雄「俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)」から来たものとされる。この縁をきっかけに隆都は山鹿流に傾倒、綾部藩全体が山鹿流を受け入れ、大番与力(おおばんよりき)(江戸時代の職名)の安藤直章は、山鹿流兵学の大家であった幕臣の窪田清音(くぼたすがね)からも学んでいる。
天保(てんぽう)8(1837)年には、大垣藩の小原鉄心(てっしん)に伝授、天保14(1843)年に綾部藩に招かれ、弘化(こうか)2(1845)年、剃髪(ていはつ)し素水と名乗り、素行の『武教全書』を復刊。嘉永(かえい)4(1851)年には、江戸で私塾を開き、これが評判となり、長州藩の吉田松陰(しょういん)、肥後藩の宮部鼎蔵(ていぞう)らが入門する。弟子である松陰・鼎蔵と『練兵説略』を刊行。ほかの著書も、先祖素行の山鹿流を海防問題に有効活用させようという試みから、理論よりも実地教練を強調した書が多い。
度重なる異国船の来訪という問題に対応するため、幕府は新しい知識と武力が必要となった。老中阿部正弘の発案により安政2(1855)年に幕府が蕃書調所(ばんしょしらべしょ)(洋学の教授所)と講武所(訓練施設)を開設。講武所の責任者として九鬼隆都が総裁、窪田清音が頭取兼兵学師範役に就任することで、山鹿流は幕府兵学の主軸となった。幕府の御用学として山鹿流が採用されたのは、素水、九鬼、窪田の関係によるものとされる。
念願であった山鹿流兵法の再顕彰がなされた安政4(1857)年、隆都の領国である丹波綾部城下にて素水病没。生涯をかけて山鹿流の復興を目指した素水の人生は報われたと言ってよい。素水は今、京都府綾部市神宮寺町上藤山の西福院に眠る。

老驥伏櫪志在千里(ろうきれきにふすともこころざしせんりにあり)
烈士暮年壮心不已(れっしぼねんそうしんやまず)

(芦屋歴史の里)

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