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芦屋歴史紀行 その三百三十二

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福岡県芦屋町

■ミシンと洋服温かさと思い出と(3)

◇戦後~焼け跡からの出発~
戦争が終わると、人々は着物など限られた物資を材料として、更生服やモンペを家庭裁縫(さいほう)によって仕立て直し、身に着けました。戦後の混乱期は物資が不足し、軍服や国民服が文字通りの普段着となりました。芦屋では、陸軍芦屋基地の備蓄品であった未使用の軍服や毛布などが放出・配布され、物資不足のなか町民に喜ばれました。
戦後の衣料不足から、戦時中に施行された「衣料配給」が昭和22(1947)年に復活し、25(1950)年に廃止されるまで続きました。また、アメリカの中古衣料が東京御徒町(おかちまち)「アメ横」など各地の闇市(やみいち)に放出され、買い求める人で大混雑しました。昭和26(1951)年の新聞は、「溢(あふ)れる放出中古品」の見出しで「アメリカからドッと中古洋服の放出だ」と報じています。
このような衣料事情のもとで、敗戦の翌年、昭和21(1946)年に洋裁専門学校、文化服装学院やドレスメーカー女学院が多数の入学者を集めて再開されました。卒業資格要件なく入学でき、かつ短期間の修業年限で実用的な技術が身につくとされる専門学校は、人気となっていきました。昭和27(1952)年の新聞は、「現在の全国の洋裁学校の数は名の知れた大きなものが300前後あり、認可、非認可の学校もひっくるめると、5800余校という膨大な数にのぼり、その卒業生は年間52万人にもなるというから、このころの若い女性は、たいてい洋裁の学校の門をくぐっていると言っても過言でないといえる」と報じています。
服飾史の専門家は、次のように戦後の洋装化をまとめています。日本人の女性の間で「国民的な規模で洋裁学習時代」が起こったことには、「はっきりとした画期(かっき)(時代の区切り)と理由があった」。つまり、「キモノから洋服への衣服革命がおこった最大の理由」は「戦争中、ズボンやモンペといった活動的な衣服を体験したこと」であり、「戦争は終わったが、着るものがない。生地もない。このため、使えるものは何でも使って服にした。これが更生服である。ここから洋裁の時代が始まった」と捉え、「厳しい生活の現実のなかで、ひそかに、着実に、衣服革命が進行していたのである」と。
(芦屋歴史の里)

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