文字サイズ
自治体の皆さまへ

芦屋歴史紀行 その三百三十六

36/40

福岡県芦屋町

■あしや歴史探訪 月軒(つきのき)遺跡の再評価(1)

◇東アジアの動乱 百済滅亡と白村江の戦い
今回は、東アジアの話から始まり、芦屋の歴史へとつながっていきます。
紀元前2世紀頃、漢の武帝が朝鮮を攻略して楽浪郡(らくろうぐん)を置き、直轄領とします。しかし、漢や魏(ぎ)、その後の晋(しん)が衰退してくると、313年に高句麗(こうくり)が楽浪郡を攻略し、中国による朝鮮支配は終わりました。この頃から朝鮮半島は、高句麗、百済(くだら)、新羅(しらぎ)の三国時代へと移っていきます。日本は、4世紀頃から朝鮮半島へ出兵を繰り返していたようで、任那(みまな)・伽耶(かや)といった地域を影響下に置いたこともあったようです。この三国鼎立(ていりつ)状態は、外部の力が影響しやすいものの、当時の日本(まだ倭(わ)と名乗っていたようですが)は、外交的にも文化的にも未熟で、東アジアの国際関係を十分に理解・掌握した行動をとることができませんでした。
その中で、日本に接近してきたのが百済でした。軍事的には高句麗が強く、百済は南へ遷都(せんと)を繰り返しながら存続していました。百済は、中国南朝との貿易を核とする貿易国で、中国の仏教を含めた最新の文物や大陸文化を日本へもたらす親日の国だったのです。618年唐(とう)が興(おこ)り、645年唐の太宗(たいそう)(李世民(りせいみん))が高句麗討伐を行います。続けて、唐と新羅の連合軍が百済の首都扶余(ふよ)を落とし、国としての百済は滅亡します。
その後、百済の残党による百済再興運動が始まります。この残党から、「当時日本に滞在していた旧百済皇子(おうじ)、余豊璋(よほうしょう)を返してほしい。彼を中心に国を再建する。ついては援軍も欲しい」との要請が大和(やまと)王権に届きます。大和王権の斉明(さいめい)天皇、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は戦後の権益を想定してか、これに賛同し、遠征軍が結成されるにいたります。天皇も皇子も九州入りし、大宰府の南方に位置する朝倉広庭宮(ひろにわのみや)が開かれます。遠征には2万7000人の大軍をもって臨み、朝鮮半島西側に位置する錦江(きんこう)河口の白村江(はくすきのえ)にて唐・新羅連合軍と戦い、悲惨な敗戦を迎えることとなります。
敗戦理由ですが、白村江における倭国軍の実態は、国造軍(こくぞうぐん)(地方豪族が率いる軍)が集まった混合軍であるため、統制がとれなかったことが挙げられます。当時の倭国軍は、何度も朝鮮半島への出兵を経験していることから、必ずしも動員や兵站(へいたん)の面で未経験ではなかったのですが、指揮系統の未確立・慣れない組織戦・戦術構成が全くないなどの理由により、唐・新羅連合軍に圧倒されました。『日本書紀』には、「日本の諸将は気象を知らず」と記録があります。現地の気象・潮の流れ・地形を調べることなく、倭国軍は戦いに突入したようです。さらには、倭国軍が、「われら先を争わば、彼まさに自ずから引くべし(手柄を立てるべく競って行けば、彼らは蜘蛛(くも)の子を散らすように逃げ出すであろう)」と言っていたという記録があります。つまり、対戦相手の実情も知らず、作戦もなしで倭国軍は戦いに臨んだのでした。その結果、「ときのまに官軍敗れん」と記録があるように、あっという間に歴史的大敗北を喫しました。
(芦屋歴史の里)

<この記事についてアンケートにご協力ください。>

〒107-0052 東京都港区赤坂2丁目9番11号 オリックス赤坂2丁目ビル

市区町村の広報紙をネットやスマホで マイ広報紙

MENU