■芦屋町出身の芸術家たち
2月22日(土)より、福岡県立美術館所蔵品巡回展移動美術館展「芸術の海へ飛び出そう3館をめぐる芦屋アートの旅」を開催します。この展覧会は、福岡県立美術館が毎年県内各地の市町村で開催し、選りすぐりの美術作品を紹介するものです。今回は、移動美術館展で作品を展示する芦屋町出身の芸術家を紹介します。
◇中西耕石(なかにしこうせき)(1807~1884)
筑前芦屋中小路出身の南画家(なんがか)です。若いうちから京にのぼり、松村景文(まつむらけいぶん)(1779~1843)に日本画・四条派を学びました。その後、大坂に出て篠崎小竹(しのざきしょうちく)(1781~1851)に漢学を学ぶと、再び京都に戻り小田海僊(おだかいせん)(1785~1862)に南画を学びました。耕石は、幕末の南画界で日根対山(ひねたいざん)(1813~1869)と並び称され、明治維新後には京都を代表する南画家として活躍しました。1882年には、京都府画学校(現京都市立芸術大学)の教職に就きました。門下から、吉嗣拝山(よしつぐはいざん)(1846~1915)らを輩出し、福岡県南画壇の育ての親ともいわれます。
※南画とは、中国の元・明の絵画に影響を受けて、江戸時代後期に成立した画派の一つです。池大雅(いけのたいが)や与謝蕪村(よさぶそん)によって大成されました。
◇田中繁吉(たなかしげきち)(1898~1994)
芦屋町山鹿出身の洋画家です。1916年、東筑中学校を卒業後、上京。本郷洋画研究所で岡田三郎助(おかださぶろうすけ)(1869~1939)の指導を2カ月受けたのち、東京美術学校(現東京藝術(げいじゅつ)大学)の西洋画科に合格。入学後は、藤島武二(ふじしまたけじ)(1867~1943)の指導を受けました。1921年に東京美術学校を卒業後、同研究科へ進学。翌1922年に第4回帝展へ「ロミちゃんの庭」(芦屋町蔵)を出品し、見事初入選を果たしました。研究科卒業後は、逓信省(ていしんしょう)貯金局で働きながら、絵の勉強を続けていましたが、1925年関東大震災の発生により失職。これをきっかけに1926年パリへ留学し、美術学校で2年間学びました。帰国後の1933年、第14回帝展に「三人裸像」(共立女子大学蔵)を出品し、特選となるなど、繁吉の作品は高い評価を受けました。その後も精力的に活動し、1963年と1987年の2度、紺綬褒章(こんじゅほうしょう)を受章しました。
次回の歴史紀行では、福岡県立美術館の所蔵品の中から、注目作品を紹介します。
(芦屋歴史の里)
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