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福岡県行橋市

◆Vol3. 歯科医術草創期の國永正臣
◇九州歯科医学校の創設
平成二六年(二〇一四)に北九州の九州歯科大学が創立百周年を迎えた。西日本随一の歯科医師養成機関は、大正三年(一九一四)に福岡で「九州歯科医学校」として開学して以来、九千人を越える卒業生を出している。
例えば、私学の創立者として慶應義塾大学は福澤諭吉、早稲田大学は大隈重信、明治大学は岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操、法政大学は金丸鉄・伊藤修・薩埵(さった)正邦などが名を残している。これに因めば九州歯科大学の創立者は國永正臣となる。

◇國永正臣という人物
彼は歴史の冒頭に名を留めるのみで無視され不遇であった。
彼はカミソリのような犀利な頭脳を持ち、洋行帰りの歯科医という評判の中「おれは荒野の開拓者だ」と三七歳で学校を設立。だが開校後、校舎移転などで財政問題が表面化、理事間の確執が絶えず、対立、内紛が続いたため、責任を取って退任したのが不遇評価の原因のようだ。
しかし、近年、竹原直道歯学博士(「國永正臣のアメリカ時代」などの論考)らの研究によって再評価が始まった。歴史は正しい事実が記されてこそ価値あるものだ。

◇医学校の創設まで
國永正臣。明治九年(一八七六)十一月十三日、行橋市津留八二二番地で高蔵、龍の三男として生まれた。郷土資料では、幼い頃から学問を好み、医師の安廣伴三について医学を学ぶとある。明治二八年、高山歯科医学院(現東京歯科大学)に入学。翌年、同じ歳の野口英世が「國永の室に転がり込む事になり、共に住み込み」学業を重ね、三十年に卒業。内務省歯科医術開業試験に合格。三二年、北九州市(若松区)で開業。その後、渡米。四二年、イリノイ大学歯学部を卒業。翌年帰国。大正三年、福岡市で口腔外科学博士として「医学校」を創設した。
当時は明治三九年に歯科医師法が制定されるなど、まさに日本歯科医術の草創期だった。家庭では「礼儀作法に厳しいおじさんだった」話も残る。
國永正臣は「西日本に初めて歯科医学校を設立した先見の明と不屈不撓」の人物像として伝わり始めた。歯を食いしばって耐えた時があったからだろう。

末松謙澄顕彰会 光畑浩治

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