◆Vol4. 新田原果樹園の生みの親・城戸巌治
◇新田原果樹園開墾リーダー
行橋市の南部、仲津校区にひろがる新田原の台地は福岡県内でも有数の果樹地帯で桃や梨、いちじくの生産が盛んだ。
新田原の開墾の記録は定かではないが、明治二十三年(一八九〇)、約五町歩(五ヘクタール)の山林原野を開墾、桑園を造成した。この開墾のリーダーを務めたのが城戸巌治だった。
城戸巌治は、嘉永二年(一八四九)九月四日、稲童村の庄屋の家に生まれた。先祖から受け継いだ田畑、山林原野六〇町歩(六〇ヘクタール)の地主として、また酒造業も営んだ素封家。明治三十二年(一八九九)から四年間、京都郡選出の県会議員としても活躍した。
◇福岡県の桃栽培第一号
開墾後、城戸が最初に手掛けたのは養蚕事業だった。桑は順調に育ったものの未熟な技術と蚕(かいこ)の不況のため、数年で中止してしまった。最初の失敗の打撃は大きかったが、城戸はすぐにその代替え策を考えた。自ら岡山、広島両県の果樹園経営状況を現地調査し、新田原での果樹栽培導入に務めたのだ。
「明治二十七年(一八九四)、城戸巌治のはからいで広島県因島から藤原吉兵衛と村上治作の二人を招き、自らの土地を提供して桃をつくらせた。これが福岡県の桃栽培の第一号」
と『福岡県の園芸』(昭和五年・福岡県園芸連発行)に書かれている。
◇九州で有数の果樹地帯に
桃栽培の成功は城戸巌治を勇気づけたことだろう。城戸はその後もさらに、新田原の開墾をすすめ、大正十四年(一九二五)の新田原の果樹園面積は一六〇町歩(一六〇ヘクタール)、栽培農家は百十五戸となり、九州でも有数の果樹地帯に成長した。
城戸は、大正十五年(一九二六)五月、七十七歳で没した。「新田原の果樹園の生みの親は城戸巌治」といわれている。
末松謙澄顕彰会 山内公二
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