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ゆくはしの偉人たち あなたが歩いたその道を、築いてきた人がいる。

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福岡県行橋市

◆Vol2.豪商大橋柏屋の人々
柏屋の祖先は甲斐武田家、小笠原藩の家臣であったが、三代直則は武士から町人となって、元禄時代(一六九〇年代)に仲津郡大橋村に移り住み、屋号を「柏屋」として木蝋(もくろう)商を始めたという。その後、当主は代々「柏木勘八郎」を名乗り、八代まで続いた。ここでは六代、七代、八代の勘八郎のみの事績をとりあげたい。

◇柏屋の発展
六代勘八郎直純は十五歳で家督を継ぎ、贅沢(ぜいたく)を戒め、家業の木蝋商のほかに両替、材木、米の問屋などの多角経営をしていた。やがて「柏屋」は、藩の御用商人として隆盛していく。家格も庄屋、子供役格、大庄屋格へ昇格。退隠の後も明治十一年、大橋村に第八十七国立銀行を創立し、地域の発展に貢献した。詩歌を好み、「山辺秋人」と号し、狂歌遺稿集を出版している。

◇七代目による事業拡大
七代勘八郎直満(真静)は天保九年(一八三六)に生まれ、慶応二年(一八六六)に家督を相続。白石海岸の塩田開拓、新田原果樹園開墾、長峡川の架橋道路の整備などに尽力し、豊前六郡米商組合長、行橋町会議員、京都郡会議員など歴任し、地域の人たちの生活向上に力を尽くした。直満の長男門三は、旧藩主小笠原忠忱に随伴し英国に留学していたが、十八歳の若さで客死した。当時、英国公使館にいた井上馨に懇切な世話をうけた縁で、井上の甥の福原二郎熊が柏木家の養子に迎えられた。のちの八代勘八郎となる。直満は明治四十年ごろ退隠したが、まだ健在で盛んに営業活動をしていた。

◇井上馨の甥を養子に 八代目、地域発展に貢献
八代柏木勘八郎(二郎熊)は慶応二年生まれで、長州の福原家から十三歳で柏木家に養子に入って、安広紫川、白石照山の私塾で学び、明治十三年から村上仏山のあとを継いだ静窓の水哉園で漢学を学ぶ。のち上京し、東京高等商業学校などで勉学に励んだ。その後、家督を継いで、八代勘八郎直升となる。家業に励むとともに行橋町会議員、京都郡会議員、宇島鉄道株式会社社長、行橋町耕地整理組合副組合長をつとめ、行橋電灯株式会社を創立し、行橋町に初めて電灯を点(とも)した。八代も地域発展に多大に寄与した。

末松謙澄顕彰会 城戸淳一

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