先月、市制70周年を迎えた行橋市。山や海に囲まれ、京築地域の中核として人が行き交い、歴史と文化が育まれてきました。昔懐かしい行橋の風景や町なみの、「今」と「昔」をご覧ください。
◆~Vol.018 行橋を支える企業―株式会社安川電機―
行橋駅の西口を出て南へ進むと、株式会社安川電機の行橋事業所へといたります。東を日豊本線、南を今川に面したこの地域は、元来水田が広がっていましたが、明治時代以来、行橋の近代化を支えた工場が代々操業しています。
元々は豊州鉄道(のちに九州鉄道)の工場がありました。明治40年(1907)に鉄道が国有化され、鉄道院の行橋工場へと移行。車両の修繕組立をする工場で、千人近い職工を抱えていた大工場でしたが、大正3年(1914)の大火により工場機能は小倉へと移転(現在のJR九州小倉工場)し、翌々年に廃止されました。
◇明治紡績行橋工場の全景/大正末期(1926)頃
大正8年(1919)、鉄道院行橋工場の跡地に、筑豊炭坑で財を成した安川敬一郎らが起こした明治紡績の行橋工場が操業します。紡績業は綿花や羊毛などを紡いで糸をつくる産業(蚕より生糸をつくる製糸業とは区別される)でしたが、第一次世界大戦の影響で紡績機が輸入できなかったため、布を織る紡織工場としてスタートしました。紡績工場が稼働し始めたのは、操業から13年経った昭和7年(1932)のことでした。その頃の従業員数は約400名で、約7割が女性工員でした。
その後、戦時色が濃くなっていくと、戦時統制により明治紡績は福島紡績に統廃合されましたが、戦局も押し詰まった昭和19年(1944)に安川家が買い戻し、安川航空電機を操業。航空基地用の発電機や軍用機の部品などを生産しました。
◇安川電機行橋事業所の全景/令和6年(2024)
戦後、安川航空電機は安川電機製作所が吸収合併し、同行橋工場として再スタートしますが、ドッジ・ラインのあおりを受け昭和25年(1950)に閉鎖となります。
しかし、7年後の昭和32年(1957)に再開、スイッチ(電磁開閉器)や電力変換を行う制御器などを生産しました。平成3年(1991)には社名が株式会社安川電機となり、現在は制御器などに加え、エレベーターやクレーン、ポンプなどの社会インフラ、産業用機械のモーター最適制御により省エネを実現する産業用インバータ、さらには、鉄、紙、繊維などの基幹産業向けシステムや社会インフラの水処理システムを支えるシステムエンジニアリング事業において安川電機グループの生産拠点となっています。
・工場の敷地面積は12万平方メートル。約2,200名を上回る従業員が昼夜業務に勤しんでいます。正門前を南北に通る道路は通称「安川通り」(国道496号の草野・西宮市三丁目間)と呼ばれています。
安川電機はさらに発展し続けます。今井の東陶ハイリビング(株)行橋工場跡地7万平方メートルを取得。今後、手狭となった行橋事業所の一部を移転し、事業所の再編を行う計画でいます。市制70周年を迎えた行橋。市制施行以前の100年余り前の大正時代からそうであったように、安川電機も行橋市の新たなあゆみと共に発展していくことでしょう。
~お詫び~
10月号の今昔物語(特別版)で、魚町商店街の「夜市」を写真とともに掲載しましたが、「夜市」自体は、中町商店街(昭和28年・1953年)が発祥です。訂正してお詫び申し上げます。
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