2024年、市制70周年を迎える行橋市。山や海に囲まれ、京築地域の中核として人が行き交い、歴史と文化が育まれてきました。昔懐かしい行橋の風景や町なみの、「今」と「昔」をご覧ください。
■守田蓑洲 生誕200年
守田蓑洲(1824~1910)は、文政7年(1824)年3月4日、沓尾村の大庄屋の五男として生誕。歴史資料館では、守田蓑洲を顕彰する展示会を開催中(7/15まで)
~Vol.12 守田蓑洲(もりたさしゅう)旧居
守田蓑洲は上稗田にあった村上仏山の私塾・水哉園に学び、その優れた才能から初代の塾長となりました。功績の1つに文久の干拓事業が挙げられます。これにより今元地区の新田開発が進み、米の生産量が飛躍的に上昇しました。「文久」はこの事業が江戸時代末期の文久年間(1861~64)に行われたことに由来します。明治時代になると育英小学校(現在の今元小学校)の創設に尽力。明治11年(1878)には初代の福岡県会議員に選出されました。明治20年(1887)頃からは、自宅の裏山である沓尾山中腹に松山神社を建立し、明治の元勲(げんくん)として活躍した杉聴雨(すぎちょうう)の協力を得ながら社域を拡張。昭和時代の中頃までは行橋を代表する風光明媚な景勝地として、多くの人々の憩いの場として大変賑わったそうです。
◇1898年/明治31年 福岡県名所図録図絵にみる守田蓑洲旧居
右(本紙写真参照)は明治時代の銅版画で、当時の守田蓑洲旧居や松山神社の姿を詳細にうかがうことができます。
守田蓑洲旧居は他の民家と比較して際立って大きく屋根も瓦葺きで、敷地は漆喰を塗った白壁がめぐっており、門が4ヶ所あることが分かります。向かって一番左の門が接客用の冠木門、その右隣は通用口も兼ねていた薬医門です。
松山神社の参道脇には、「巨霊石」という大坂城の石垣を築くために石を切り出した痕跡を残す大岩があり、守田蓑洲旧居は「霊石亭」とも呼ばれていました。
・沓尾は祓川河口に位置し、古くは要港として栄えた港町。図絵には水面に多くの帆船や小舟、路地には人力車がみえ、当時の交通体系がわかります。
◇2023年/令和5年 春の守田蓑洲旧居
守田蓑洲旧居は、平成20年(2008)2月に蓑洲のひ孫の和之氏から行橋市に寄贈され、同年8月1日には、江戸時代末期の庄屋の屋敷の姿を良く伝えている点が高く評価され、市の史跡に指定されます。
平成23年(2011)から3ヶ年をかけて、増築部分を撤去、傷んだ建築材や瓦屋根の修復工事を実施。失われていた冠木門も復元され、平成26年(2014)5月3日より一般公開を開始しました。
・地元住民の皆さんが「沓尾学校」を組織し、守田蓑洲旧居や松山神社、石丁場跡などの沓尾地区の文化財の保全、ガイドに務めています。
この春、守田蓑洲旧居は開館10周年を迎えます。古建築にみる匠の粋や庭園の美を楽しむも良し、仲間うちで作陶やハンドメイド作品などギャラリーとして利用するも良し。近年は津軽三味線や筝曲のコンサートも開催しており、地域の文化財活用拠点の1つとして、次の10年に向けて新たな歩みを進めていきます。
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