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ゆくはし今昔物語

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福岡県行橋市

2024年、市制70周年を迎える行橋市。山や海に囲まれ、京築地域の中核として人が行き交い、歴史と文化が育まれてきました。昔懐かしい行橋の風景や町なみの、「今」と「昔」をご覧ください。

◆~Vol.13 行橋とゴミ問題
日本における人々とゴミとの関わりは今から約1万年前の、縄文時代の初めごろにさかのぼります。野山でシカやイノシシの狩りをし、海原に出て漁をするなど、狩猟採集を生業として生活していた縄文人は、住まいの近くに「貝塚」を築きました。貝塚とは、貝殻や獣や魚の骨をはじめとする様々な生活ゴミを長年にわたって投棄し続け、それらが堆積し遺跡となったところで、市内では宝山にあった縄文時代の終わりごろの貝塚が知られています。続く弥生時代には、「宮の杜」建設時に発掘調査した下稗田遺跡で、貝殻などを捨てたゴミ穴が多く見つかっています。

・下稗田遺跡で見つかったゴミ穴
行橋の名産であるカキやマテガイの貝殻も多く出土しました。

◇1984年/昭和59年 西谷に完成したゴミ焼却場
行橋の環境行政は、日本が高度経済成長期を迎えた昭和30年代にスタートします。昭和35年(1960)、今井に1日15トンのゴミを焼却するじん芥焼却炉が完成。しかしながら40年代にはゴミ収集量が増加、炉も老朽化したため、「野焼き」で対応していました。新たなゴミ焼却場建設に取り組むも、建設地の選定に難航。昭和55年(1980)にようやく、行橋市と犀川・豊津・勝山の3町(現在のみやこ町)が馬ヶ岳の麓の西谷地区に広域ゴミ焼却場を建設することで合意します。4年後の昭和59年(1984)、1日に120トンのゴミを焼却する処理場が完成し、翌年4月より操業を開始しました。この焼却場は施設の老朽化により、平成17年(2005)3月末で閉鎖されましたが、丸20年間、地域のゴミ処理の要の施設として機能しました。

・丸20年間で焼却したゴミの量は46万7297トン(福岡ペイペイドームの約1.5杯分)にも及びます。

◇2024年/令和6年 みやこ処理場(リレーセンター)
この間、行橋市と周辺3町は、焼却場に替わる施設として、コンパクタ・コンテナ方式と呼ばれる「中間処理施設」の導入を決定。焼却場隣接地で、平成18年(2006)4月より「みやこ処理場」が稼働を開始します。これにより、行橋市ではゴミ焼却はせず、集められた可燃ゴミは圧縮され、コンテナ運搬車で北九州市の焼却場へと搬入されるようになりました。

・1日あたり64トンの可燃ゴミが集まります

私たちが日常生活をする上で、どうしても発生してしまうゴミ。豊かになりすぎた現代社会においてゴミ問題は大きな社会問題の1つで、近年は海洋プラスチック、フードロス、またSDGsの観点からも大きく取り上げられています。皆さんもリサイクルや分別などできることからゴミ問題と向き合い、エコロジーな社会形成に参画しましょう。
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