「風邪もひかないし自分は健康だ」「忙しくて時間がない」「費用がかかるし、もったいない」などという理由で健診を受診していない人、本当にそのままで大丈夫でしょうか。今回の特集では、町内在住のある家族の闘病秘話とそれによる生活の変化を語ってもらいましたので、ぜひ自分ごととして考えてみてください。
■病は暮らしを変える~ある家族の手記~
昨年は春から我が家最大の危機を迎えました。まずは54歳の私。
4月下旬の土曜日夕刻、シャワーの後に喉の焼けるような突然の痛みに襲われ、大量の脂汗。たまたまリビングに居た妻に救急車を呼んでもらうようお願いしたものの、今までに味わったことのない猛烈な苦しみで、もがくことしかできない。救急車は5分ほどで到着したが、救急隊到着時にはもう視界はない。口も動かない。耳だけが聞こえ、病院に着いても医師が話す声が聞こえてはくる。その間、「なぜ自分なんだ⁉」という怒り、「誰か早くなんとかしてくれ!」という焦り、それはやがて「子どもたちにもう一度会いたい」という願い、そして「もうダメかもしれないな……」という絶望感。そして間もなく、検査に向かうそのとき、心臓が止まった。すぐに心臓マッサージと除細動器による蘇生が行われ、脈は復活した。急性心筋梗塞との診断で緊急のカテーテル手術が行われ、どうにか一命を取り留めたが、意識を取り戻したのは1週間後。肺炎を併発したため、薬で眠っていた。
手首や足首には点滴が刺さり、尿カテーテル、さまざまな計器類、口には気管チューブが付けられていた。数日して気管チューブは外れたが、全く声が出ない。しかし、10日ぶりに飲む水は最高においしかった。
わずか10日で筋力はあっけなく衰え、一人では立ち上がれず、立ち上がってもフワフワと足がついていないような感覚。目覚めてすぐにリハビリが始まった理由がわかる。数日後、一般病棟に移ったが、相変わらず心電図モニターと点滴がつながり、病室から出るのも看護師と一緒。歩くことはできても長くは持たず、毎日毎日リハビリが続いた。1カ月が過ぎたころ退院。ようやく家族にも会え、我が家でゆっくりできると思いきや、そこからも闘いが続く。家で一人でいることが恐怖となった。
「もし一人のとき再発したら……」という不安が付きまとう。妻が働いている時間はスマートウォッチというお守りを着け、できるだけ一人にならないよう、大型ショッピングセンターでリハビリウォーキング。食事は血圧を抑えるため塩分摂取には特に気をつけ、買い物をするときには必ず食品表示の塩分量を見るようになった。健康な人も気を付けたい一日の摂取目標である6グラムというのは非常に難しい数字で、コンビニでおにぎりを2つ買うと1食分の塩分量2グラムを超える。自ずから野菜中心の生活になった。
発病前は高血圧と脂質異常でも中肉中背だった体重は10キログラム減って、ズボンもぶかぶか。筋肉をつけるためにもトレーニングをしたいが、心臓マッサージの影響で胸骨、肋骨が痛み、喉の圧迫感などが続いていて、筋トレはおろか重いものも持てない始末。その後の定期通院では肋骨の骨折も判明。大好きだったゴルフも、クラブをゆっくり振ることさえ苦痛で、ゴルフバッグは今も埃をかぶっている。
職場へは1カ月の自宅療養後に復帰したが、体調がすぐれず休みをいただくこともちょくちょくあり、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。車の運転は制限されなかったが、やはり不安が残る。特に長時間の運転はできないので、妻の実家への帰省や旅行は半年以上行けなかった。
そして一番怖かったのは深夜のトイレ。何か起きたときに備え、スマートフォンを片手にできるだけゆっくり向かい、用を足していた。
家族の大きな支えもあって、なんとか過ごしていた7月、次は妻が。
1年に1回受けている健康診断で乳がんが発覚。家族は不安のどん底に沈んだ。
腫瘍は大きかったが、ステージII。抗がん剤で半年かけて小さくして切除する方針で、早速治療が始まった。髪の毛はもちろん鼻毛や眉毛、まつ毛も抜けたが、妻は変わらず妻であった。副作用で吐き気も強く、お腹を下したり、爪が変色して剥がれたり、全身に湿疹が出たり。免疫も落ちているので、新型コロナだけでなく、インフルエンザも怖い。半年乗り越えて挑んだ検査では、ほぼ腫瘍がなくなり、摘出手術を終え、転移もみられなかった。早期発見が妻の命を救った。
我々より苦しい人たちもいるだろうが、我が家にとっては壮絶な年となった。生活も変わり、上の娘には不安な受験生活を送らせてしまったが、家族を失うことより代償は小さい。
自分の体に正直に向き合い、健康でいることの大切さが本当に身に染みて感じられる今日この頃である。
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