■塩屋埼灯台の〝怪〞
写真には豊間海岸が撮り込まれています。写真中央には、平菅波(たいらすぎなみ)に所在する磐城大国魂神社(いわきおおくにたまじんじゃ)が豊間海岸の浜辺に下りて行う「お潮採(しおと)り」あるいは「神輿渡御祭」といった、潮水を供える神事(元は4月、次いで7月、現在は5月に実施)が見えます。
海岸においてお潮採り神事を行ってから神輿を海に入れるという順序で行われ、神輿の担ぎ手が豊間集落の入口で〝農〞から〝漁〞へ担ぎ手が変わることに特徴があります。
ところで、この写真、どこか変だと思いませんか。
そう、塩屋埼灯台が白い紙状なもので覆われ見えないのです。撮影時代はわからず、どのように意図されて撮られたかもわからないのですが、この写真が戦時中に撮られたものとすれば合点がいくでしょう。戦時下にあって、軍事上重要な施設などを隠すため、写真や地図には意図的に、その存在を隠す措置が取られていたのです。
戦時色が濃くなる中、灯台はアメリカ軍による空襲の標的となることが懸念されたため、本格的な戦争の始まる前、昭和15(1940)年6月に灯火管制の工事が行われました。さらに、開戦となった昭和16(1941)年12月には縄と漁網で偽装が施され、次いで昭和17(1942)年3月には、空襲に備えて海軍対空監視通信網の一部に位置づけられたことから、昭和19(1944)年5月には、攻撃を回避するため茶色と灰色のペンキで迷彩色に施されました。
こうした備えを、アメリカ軍は容易に突破。昭和20(1945)年6月を皮切りに4度空襲に見舞われ、同年8月の空襲では灯台職員1人が殉職しました。終戦のわずか5日前の出来事でした。
(いわき地域学會 小宅幸一)
※写真は本紙またはPDF版に掲載されています。
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