■街外れに建設された競輪場
平市街地は太平洋戦争で3度、空襲で焼かれました。平市を含め、空襲で被災した全国の都市にとって、復旧・復興を目指すための財源確保は大きな課題でした。
政府は日本の復興施策として、戦前から検討していた自転車競走に車券を付加する競輪事業を、連合国軍総司令部(GHQ)に届け出しました。しかし、日本を間接統治していたGHQは政府を主催者とすることに反対、地方ごとに行う性質のもの、と意見を付し承認しました。
こうして、「自転車競技法」が昭和23(1948)年8月に公布・施行され、第1条には、地方財政の健全化を図るため、指定市町村は自転車競走を行うことができる、と定められています。
最初に開催したのは小倉市(現・北九州市)でした。前年に国民体育大会を開いており、この施設を利用したものでした。
平市は小倉市と同様に炭鉱地域を控えているという酷似した都市環境にあったことから、積極的に誘致運動を展開。昭和25年9月に通産省の認可を得て、昭和26年2月、開催にこぎつけました。
候補地としては、中塩(なかしお)、九品寺前(くほんじまえ)、それに合併したばかりの旧飯野村大字谷川瀬(やがわせ)の3か所が挙がりました。最終的に平市街地から離れ、農地の壊地(かいち)が少ない谷川瀬が選ばれました。
その後、平市単独開催と5市共同開催の2本立てを経て、今は市民に開かれた競輪場として競輪のほか各種イベントも開かれています。
(いわき地域学會 小宅幸一)
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