■「戒石銘碑」誕生の功績者 岩井田 昨非(いわいださくひ)(1699~1758)
昨非は、元禄12年(1699年)下野国芳賀郡(現栃木県)に出生、のち幕府儒官の桂山彩巌(かつらやまさいげん)に師事し、儒学を極めました。その頃、二本松藩では五代藩主丹羽高寛(たかひろ)公が藩政改革の懸案に苦慮し、また、家老丹羽忠亮(ただすけ)もその打開策に苦悩していました。
忠亮は親交のあった桂山に相談したところ、昨非が推薦され、享保19年(1734年)150石で召し抱えられることになったのです。
昨非が二本松に着任した当時、藩土の中でも満足に読み書きできる者が少なかったといわれています。昨非は藩主・家老の後ろ楯により、重臣・藩士らの反対を押し切り、文武両道の義務化等の教育制度をはじめとして軍制・士制・刑律・民政などの重要施策を次々と改革していきました。
刑律では耳そぎ・指一つ切りなどの残虐な刑罰を禁止し、民治の面では藩公外遊の際には、先触れなどの煩雑な制度を廃止して農民の作業の妨げとなるのを防ぎ、また、出先の民家で長い時間にわたる昼食がないように、弁当持参の原則を確立したといいます。
さらに、藩士の教育にも力を注いだといわれています。
寛延2年(1749年)は凶作の年でした。ちょうどこの年、昨非の進言により、藩士を戒める目的で「戒石銘」が藩主の命により刻まれました。各村では年貢米の減免を訴えている状況下、一修験僧が戒石銘の解釈を「下民は欺き易く、虐げても民の膏脂をしぼり、もってなんじらの俸祿とせよ」と誤って伝えました。そのため、農民の間に憎悪の感情が広がり、加えて平常、昨非に反感を抱いていた者達の扇動もあって、農民集団による一揆にまで発展。城中では直ちに会議を開き善後策を協議し、この騒動は昨非の責とする声が多数を占めたため、自ら一揆鎮圧に向かいました。そして、静かに真の意味を説き聞かせた結果、暴徒は両手をつき頭を垂れ、中には感激のあまり涙にむせぶ者もいたといいます。
しかし、反昨非派からの批判は、ますます高まり、さすがの昨非も宝暦3年(1753年)辞職、以後詩作の生活を送り、同8年(1758年)3月14日病没。市内台運寺の最高台に、臨終のとき詠んだ一編の漢詩を刻んだ墓石の下に眠っています。
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