■二本松藩随一の刀工 古山陸奥介弘元(ふるやまむつのすけひろもと)(1778~1843)
“武士の魂”といわれる日本刀。旧二本松藩では、数多くの刀工が知られています。その中でも、藩随一と称され、他藩からの作刀注文が殺到した刀匠が、古山陸奥介弘元でした。
安永7年(1778年)、二本松藩の鉄砲鍛冶古山久四郎(ふるやまきゅうしろう)の末子として出生。古山家は代々鍛冶屋で、父の代に鉄砲鍛冶を本業としています。
弘元は、20歳のころ、仙台に出て刀匠十一代国包(くにかね)の門人として、修業を始めました。
文化2年(1805年)江戸に上り、当時、天下一の刀匠と称された水心子正秀(すいしんしまさひで)の門人となり、厳しい鍛錬を重ねます。ほかにも、同郷の安積艮斎(あさかごんさい)を介して昌平學(しょうへいがく)塾長で儒学者の佐藤一斎(さとういっさい)について勉強に励み、蘭学者の司馬江漢(しばこうかん)に師事して西洋科学の研鑽を積み、焼き刃・湯加減や刀剣発錆の理論を会得し、鍛刀技法に活用しました。
また、文化8年(1811年)に『刀を作る記』、文政3年(1820年)に『刀剣利書(見みききしょ)』を著すなどし、江戸でその名が知れわたるようになりました。
さらに、自作刀を試すために武士道にも心がけたらしく、文武に精通する刀工に成長したといわれています。
文政4年(1821年)、免許皆伝の「剣工秘伝志」が伝授されました。弘元の鍛刀技術の評価が諸藩の大名にも届き、作刀依頼が相次いだといいます。 当時、“守(かみ)”や“介(すけ)”等の叙位を拝領するためには莫大な金と献上物が必要で、弘元も叙位を拝領するために、献上用の刀剣百振と大金を準備して、京都へ上り、京都に滞在すること40日余り、ようやく朝延より口宣(くぜん)(口頭による勅命)されたのでした。
弘元の名声を聞いて、諸藩より召し抱えの申し出が相次いだため、時の藩主丹羽長富は帰藩を命じました。それ以降、藩お抱え刀工として藩士用の作刀に専念。藩主の意を汲んで他藩からの注文には応えなかったといいます。
刀銘には、「二本松住古山宗次」「陸奥介弘元」「古山陸奥介弘元」「古山陸奥介藤原朝臣(あそん)弘元」等があります。天保14年(1843年)5月27日死去、享年66歳、市内亀谷光現寺に眠っています。
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