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二本松ふるさと人物史 No.13

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福島県二本松市

■長野県近代教育の恩人 
渡辺 敏(わたなべはやし)(1847~1930)

戊辰戦争の爪あとが残る二本松を去り、他県で活躍した人々の中のひとりに挙げられているのが、旧二本松藩士・渡辺敏です。
弘化4年(1847年)1月28日、藩士浅岡(あさおか)段介の四男として生まれました。弟には、のち同様に長野県教育界で功績を残した浅岡一(はじめ)がいます。6歳から藩校敬学館で学び、12歳で御小姓役に出仕する一方、弓術・槍術・剣術を修めました。改名に当たり、父は『論語』の中で特に好んだ「言ニ訥(とつ)ニシテ行ニ敏(びん)ナラント欲ス」つまり“口は達者でなくとも、実行は速やかに”から「行フニ敏(はや)シ」と訓じ名付けました。
幕末期、本人の知らないままに藩校教授渡辺新介(戊辰戦死者)との養子縁組がなされ、敗戦後、そのことを知りました。士族常禄として支給される、わずか玄米16石(40俵)で養家の4人家族を扶養する生活は苦しく、藩校助教授を勤めるかたわら諸事業に手を出しては失敗の連続でした。
明治7年(1874年)、「自分の性格は政治家・実業家・武芸家としては適さず、学者として世に立つことが最も当を得」の立志により、教育者の道を歩みはじめ、長野県の学校に赴任。学校教育をはじめ夜学会開設、職業学校設立建議など、8年にわたり地域教育に尽くしました。
一時、福島でも教鞭をとりましたが、熱意ある招請により再び長野県へ。新設された長野県高等女学校(現長野西高校)では初代校長に就任。大正5年(1916年)に70歳で退職するまでの約30年にわたり長野県教育界でその手腕を発揮したのです。
この間、補習夜学科や晩熟生学級の開設、子守教育所や盲人・唖人教育所の設立などにも尽力。その言動は無私無欲で合理主義に徹底し、全国の模範となった長野県の初等中等教育・障害教育・社会教育、いわゆる“信濃教育”の基盤の確立と発展に大きな功績を残しました。
一方、先祖が眠る故郷二本松には再三訪れ、戊辰戦役50周年慰霊祭に臨席したり、また、自ら体験した戊辰戦争談を講演したりしています。
昭和4年(1929年)正月、脳梗塞のため言語不通・右半身不随となり、翌年2月21日逝去。長野市の霊山寺に眠っています。雑誌『信濃教育』は「渡辺敏先生追悼号」で、その業績を称賛しました。

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