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二本松ふるさと人物史 No.14

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福島県二本松市

■中国哲学の泰斗(たいと)
服部 宇之吉(はっとりうのきち)(1867~1939)

現在でも戒石銘研究の基本書となっている「旧二本松藩戒石銘説明書」(昭和11年福島県教育安達部会刊行)を詳述したのが、明治から昭和にかけて中国哲学の権威者として知られた服部宇之吉博士です。
博士は、慶応3年(1867年)4月30日、二本松藩士服部藤八の三男として出生。僅か二人扶持(ぶち)の下級武士の家系でした。生まれた1年後に母が病死、その後に父が戊辰戦争で戦死。そのため、父の弟夫婦が引き取り育てることになりました。
明治6年(1873年)、養父が麻布六本木の旧藩主丹羽邸に勤めることになり、一家で上京。貧しいながらも実直勤勉な養父母の理解もあり漢学塾で学び始め、明治20年(1887年)、東京帝国大学哲学科に入学。この年、旧藩主丹羽長裕に随行し、二本松に帰省しています。
その時、「養父母や他の人から聞いておりました二本松というものを、初めて自分の目で見、自分の足で踏んだように感じたのであります。」と、のちに語っています。
明治32年(1899年)東京帝大助教授となり、同時に清(しん)国とドイツへ留学。同35年(1902年)東京帝大教授に迎えられましたが、直後に清国政府の懇請により渡清。「清国人教育の根幹は清国人自身にある」という理念のもと、師範制度を確立し、また清朝廷の家庭教師を兼ねるなど、清国教育界の発展に貢献しました。また、京城(けいじょう)帝国大学創設に携わり、大正15年(1926年)に初代の大学総長となりました。さらに、裕仁(ひろひと)親王(昭和天皇)の進講御用掛を拝命し、「二本松藩戒石銘」の御進講を行ったと言われています。
博士の学問は西洋哲学を踏まえて、いわゆる孔孟の道、中国の礼の思想に論理的体系付けをしました。なかでも中国古代の実践儀礼、冠婚葬祭全般にわたる士の儀礼の典拠としてただ一つ残されている「儀礼(ぎらい)」の研究に独自の見解を発表し、国内外の学界より高い評価を得ました。その研究業績は、『清国通考』『詳解漢和大辞典』などの著書・論文を合わせて二百余の多くを数えています。
昭和14年(1939年)7月11日病没、享年73。法号「礼文院殿釈随軒正道大居士」、東京都文京区大塚の真言宗護国寺に眠っています。

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