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二本松ふるさと人物史 No.15

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福島県二本松市

■亜細亜大学の創設者 太田 耕造(おおたこうぞう)(1889~1981)

終戦間近に文部大臣として活躍し、戦後「亜細亜(あじあ)大学」を創設したのが、愛国者として知られた太田耕造です。耕造は、明治22年(1889年)12月15日、旧二本松藩の豪商・勢州屋八代長左衛門より分家した太田貞郎の四男として出生。6歳ごろまで二本松で育ちました。
明治30年代前半の金融危機によって本家と共に連鎖倒産となり、小学校中退を余儀なくされました。のち、姉の影響で福島教会で洗礼を受け、キリスト教青年活動に従事する傍ら、私立「学半塾」を修了。二松学舎(にしょうがくしゃ)創始者の三島忠州(みしまちゅうしゅう)に師事しています。
その後、牧師を志して上京するも、その道を断念し、法律・政治家に進むことを決意。大正9年(1920年)東京帝国大学を卒業して弁護士となり、さらに現代政治思想史研究の機関誌「国本(こくほん)」の重要メンバーとして、国家主義運動に傾注しています。
昭和13年(1938年)法政大学教授に就任、しかし、翌年の平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣誕生に伴い総理大臣秘書官に任命され、次いで内閣書記長(現官房長官)、貴族院議員、そして、鈴木貫太郎(すずきかんたろう)内閣誕生に際し文部大臣に任命されました。
そして終戦となり、大臣を辞職。A級戦犯容疑に問われ、一年半に及ぶ拘留の結果、不起訴処分で出所。弁護士として再登録する一方、“日本再建の基礎は青少年の正しい育成である”との堅い理念から、再び教育に情熱を傾注しました。
昭和29年(1954年)、先に自ら創設した亜細亜学園理事長・日本経済短期大学長に就任。日本とアジアの親善・理解の重要性を説いて、派遣留学生制度を確立し、教育面だけではなく、文化交流・国際親善にも大きく貢献しています。
また、“日本及びアジアの文化社会の研究と建設的実践に重点を置き、もってアジア融合に新機軸を打ち出す人材を育成するを、その使命とする”と説き、「自助協力」を建学精神として、同30年(1955年)に亜細亜大学を創設し、学長に就任。留学生別科を開設し、アジア各国から迎え入れ、その数は一千人を超えたといいます。
「アジアは一つであり、教育こそ国を救う源である。」と訴え続けた真の愛国者・教育者は、同56年(1981年)11月26日、91歳の長寿をもって逝去。その精神は今もなお後進に受け継がれています。

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