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二本松ふるさと人物史 No.16

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福島県二本松市

■明治後期の小兵人気力士 藤見嶽 虎之助(ふじみだけとらのすけ)(1878~1923)

小さな力士が大きな力士を破る一番には格別なのものがあります。その小兵力士として、明治時代後期に活躍したのが、郷土出身の藤見嶽でした。
明治11年(1878年)6月18日、神田久太郎・ヨウの長男として旧岳下村成田字椚橋(現・本町)に出生、久助と命名されました。幼少の頃から相撲が大の得意だったといいます。
同28年(1895年)に力士への夢を抱き藤島部屋に入門。当時藤島部屋には稽古場がなく、出稽古として近くの尾車部屋に通いました。余りにも小柄で貧弱な久助の体格を見た尾車は、将来性なしの面持ちだったといいます。
しかし、稽古を進んでかってでたのが、のちの名大関・荒岩。厳しくも情愛に満ちた稽古と、久助の天性の機敏さ、東北人特有の粘り強さ、人一倍の負けん気が功を奏し、早くも同年5月の番付けで西序ノ口十八枚目に「藤見嶽」の名が張り出されたのです。
この四股名(しこな)は師匠藤島の一字と、故郷の秀峰安達太良山の愛称“嶽山”を偲ぶ意味を合わせて付けました。また、新入幕時に虎之助と改名したのは、寅年生れに由来したといわれています。
その後順調に位を上げ、同37年(1904年)に待望の新入幕を果たしました。
史上最小といわれる、身長165センチ、体重71キロの藤見嶽は、大きな相手を再三土俵にはわせました。特に、横綱大砲との一番では身長差30センチ・体重差60キロがありながら、堂々の引分けを演じ大喝采を浴びると共に、人気力士のひとりに数えられました。(当時は勝・負のほかに、預かり・引分けがあった)
藤見嶽の取り口について、大関・初代朝潮は「力士の中でも藤見嶽くらい相撲上手な者はいない。相撲具合の良いこと、出足といい逃足といい、おまけに柔らか身などは言い様がないほど巧い。」と称賛したといわれています。
最高位は西前頭三枚目。小兵ながらも大きな力士に敢闘し、その技能の取り口は角界にその名を残しています。同43年(1910年)引退後は、年寄藤島を継ぎ後進の指導に尽力しました。
大正12年(1923年)7月15日、風邪がもとで胸を冒され、45歳の若さで逝去。現在、安達太良山が眺望できる市海道共同墓地に眠っています。

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