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夏休み!夏の歴史探訪(れきしたんぼう)パート2(ツー)

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福島県二本松市

今月号は、二本松市内の歴史探訪パート2。
“塩の道”としても知られる奥州(おうしゅう)西海道(さいかいどう)の宿場「白髭宿(しらひげじゅく)」を紹介します。

■交通の要所「白髭宿」
江戸時代、各地の大名が自分の領地と江戸(東京)を往復する参勤交代(さんきんこうたい)が義務づけられました。この参勤交代にあわせ、全国に多くの道(街道・海道)が整備されました。
現在の二本松市内には、主要街道として奥州街道が整備されました。一里塚や問屋場(とんやば)が設置され、多くの大名たちが街道を行き交いました。
また、浜通りの相馬藩が二本松藩と協力して開いた「奥州西海道」は、相馬藩が参勤交代に使用したほか、相馬地方の海産物や塩、さらには、太平洋の船運を活用して、遠く四国や九州の産物も二本松藩などの中通りや会津の各藩に運ばれました。

■白髭地区からみる歴史年表

■江戸時代の「白髭町」
「白髭町」と呼ばれ、海道の宿場町として栄え、本陣には、相馬の殿様が宿泊しました。
問屋には、当時の繁栄を記した問屋経営の記録が残されています。
塩や海産物、石灰などの商いの記録のほか、琉球人が通った記録や、はるばる中国から「ラクダ」が来た記録も残されていました。

▽~宿場の街並み~
水の豊富な地域である白髭宿。通りの両側に小さな「堀」があって、片方が「上水」。もう片方が「下水」として活用されていた。
今は車が通れるように道路が広がったが、道を歩くと、その当時の名残りが見られる。

■江戸時代の“宿場”を歩いてみよう!!
[1]~地福寺~
開祖の目範上人が永正15年(1518年)に亡くなったと伝えられているため、500年以上前には寺が開かれていたと考えられる。
寺の敷地に建つ宝篋印(ほうきょういん)塔は、宝暦10年(1760年)に建てられたもので、市指定文化財に指定されている。
また、明治6年(1873年)上太田小学校発祥の場所でもある。

[2]~白髭神社~
安和2年(969年)太田氏が近江国(今の滋賀県)から移ったときに、白髭神を勧請して、この地の守り神としてまつった。
なお、現在の社屋は、火災や大雨による移転、再建を経たもの。

[3]~旧本陣~
宿場での「本陣」とは、参勤交代の大名や公家、幕府役人などが公用の旅で宿泊する宿舎のこと。
白髭宿には、歴代の相馬藩主が宿泊した。大きな蔵が当時の栄華を感じさせる。

■塩の道「奥州西海道」
相馬から「栃窪」「八木沢」「関沢」「飯樋」「比曽」を通り、二本松藩では「山木屋」「白髭」「小浜」を通ります。その後、今の大平地区安達ヶ原から阿武隈川を渡り、二本松城下へと向かいました。
また、参勤交代での相馬藩は小浜から「長屋」を経て「本宮」で奥州街道に出ました。
海道沿いには、今でも道標が残っているところもあり当時の面影が偲ばれます。

■自然の巨石「白髭八景」
白髭地区には、多くの巨石が存在し、その中で特に大きいものが「白髭八景石」と呼ばれています。
(1)明神の遊び石
(2)呼ばり石
(3)蛙石
(4)潜(くぐ)り石
(5)椿石
(6)庚申塔立石
(7)博打石
(8)二十三夜塔(市指定文化財)
※(2)(4)(7)は、巨石に通じる道が危険なため、現在、近くに行くことができません。

※本号で取り上げた内容は「東和町史」、昭和43年にまとめられ平成12年に出版された上太田地区の「郷土誌」(三浦猛義氏著)および地域での言い伝えを基にまとめたものです。別の資料や今後の研究などにより、新たな事実の発見または、異なる解釈がある場合があります。
※本号で紹介した場所には、私有地も含まれます。私有地では、それぞれの方の生活が営まれていますので、許可なく、みだりに立ち入ることのないようお願いします。

■ひとあしのばして!
・道の駅「さくらの郷」
二本松市東新殿字平石田12-2
・道の駅「ふくしま東和」
二本松市太田字下田2-3

※詳しくは本紙をご覧ください。

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