■二本松藩西洋医学の先駆者 小此木 天然(おこのぎてんねん)(1785~1840)
近世後期、二本松藩は奥州諸藩の中では仙台藩に次いで西洋医学の盛んな藩の一つに挙げられています。その先駆者として活躍したのが、小此木天然でした。
天明5年(1785年)、江沼氏の子として出生、小此木家に婿養子に入りました。同家初代の屋之は長崎に遊学して外科を学び、帰藩し松岡町で開業。二代貞安は、側医に召し抱えられ百石を給されています。
祖父・父の業を受け継ぐことに対して、自分の力量に疑問を感じた天然は、外科を学ぶ志を立て、単身笈(おい)を背負って長崎の地に向かいました。
オランダ語と医学現況を学び、のちにシーボルトのもとで、従来の本邦医学界にはみられなかった臨床実験と解剖学について学びました。
シーボルトの指導もあり、ある婦人の乳ガンの手術を執刀。手術は成功し、患者は全快したと言われています。また、手術の手際の良さをみたシーボルトは、天然の技に深く感じるものがあったとも言われます。さらに、当時新たに輸入された西洋医学の内科・外科の書を日夜攻究し、さらなる知識を会得した天然は帰藩しました。
二本松に帰った天然のもとには、多くの門下生が押しかけました。天然は特に門人の実地指導のため、初めて藩の許可を得て刑死者の解剖を行い、その体験をもとに『骨譜』という医学書を著しました。さらに、人体骨格標本を藩校敬学館の医学寮に寄贈しています。
文政7年(1824年)8月15日夜、初期岳温泉が、大雨による土石流で一瞬のうちに押し流され63名の犠牲者を出す大惨事となりました。報を受けた天然は、救護のため門下生を引き連れ現地に急行し、冷静な判断による応急処置を行い、万死に一生を得た者が数知れなかったと言われています。
天然には、利玄(りげん)と利韋(りい)という2人の子どもがいました。死を前にした時、「君(藩主)に仕えて忠を尽くせ、友に交じって信を致せ、是れ汝曹処世(なんじつかさどるしょせい)の道なり」と教え訓じました。
そして、天保11年(1840年)11月11日安らかな臨終を迎えました。享年55、心安寺(当時久保丁所在、明和の大火で焼失、明治元年大隣寺に合併)に埋葬され、翌年門下生により顕彰碑が建立されています。
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