■木幡(こはた)の幡祭(はたまつ)り(2)
源頼義(みなもとのよりよし)、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)父子は、戦をしないで勝った訳ですが、木幡山の北の方に勝屯内(かつたむろうち)という字(あざ)が残っていて、そこの近くに八間石(はちけんいし)という平らな大きい石があり、そこでみんなで一晩飲み明かしたそうです。そして、そこの石に八幡太郎義家が乗っていた馬の足跡があるのだといいます。また、その下の方に関場という所があるのですが、ここでは、川をせき止めて関堀で馬を洗ったといいます。ここにも馬の足跡があるということです。
これが陸奥平定の要因となり、朝廷に奏上(そうじょう)したところ、後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)はこの山を「木幡山」、山裾の別当寺院を「治陸寺(じろくじ)(陸奥を治める)」と名付けられ、宸筆(しんぴつ)(天皇の自筆)の額を賜ったのです。
以来、神仏の加護を深く信ずる里の人々は、源氏の白旗になぞった手織りの五反旗を作って木幡山を練り歩き、源氏の武勲を称え合ったのです。そして、そのことが今に伝えられ続けているのです。
昔は、自分の家で織った絹の白旗ばかりだったそうですが、今では、それに色もつけた方がよいということになって、各「堂社(どうしゃ)」ごとに区切りをして、先達(せんだつ)(案内人)という人が、白い旗を持つことになった訳です。
また、買ってきた反物でも、山の木にひっかかって裂けてしまった物でも、女の人たちが縫い物をすると、ちゃんと着物になるようになっていたといいます。そういう訳で、どこの家でも喜んで旗にする反物を出してくれたし、また、余った反物は、背負ってお山参りをしたものだそうです。
現在、木幡の幡祭りは、毎年12月の第一日曜日に行われています。
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