■藩随一の尊王義士 三浦 権太夫 義彰(みうら ごんだゆう よしあき)(1837~1868)
戊辰戦争における二本松藩の戦死者は337名。その中で、農兵司令士として奮戦し、壮絶な戦死を遂げたのが三浦権太夫義彰でした。
義彰は天保8年(1837年)、藩士三浦義武(よしたけ)の長男として出生、通称を権太夫といい、のち桜所(おうしょ)と号しました。
祖父・義類(よしかた)は名郡代(ぐんだい)として精励する一方、詩人で多くの著書を残しています。父・義武は郡奉行、勘定奉行の職にある一方、画を白河の春木南湖(はるきなんこ)に学び、その作品は高い評価を得ました。
義彰もまた、藩儒学者・堀謙斎(ほりけんさい)の門に学び、文武教育を会得し、のち尊王の志を抱くようになりました。義彰の性格は質実剛健、清廉潔白、そして藩を思う心は人一倍強かったといいます。
文久2年(1862年)藩主の参勤交代に従って江戸詰めとなりました。初めての執務の中で、重臣たちが藩政を欲しいままにしていることに憤慨し、さらに、時勢の推移を憂慮し、家老座上の丹羽丹波(にわたんば)へ藩政刷新を説いた建白書を送り付けました。
しかし、重臣たちの反感を買い、策謀により藩政を乱す者として二本松に送還され、投獄処分となったのです。
翌年、出獄を許されたものの自宅禁固処分のため、子弟を集めて教授する日々を送ります。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争の戦火が二本松藩領まで及んだことで、義彰はようやく赦免されました。そして、藩命により農兵を率いて出陣、安達ヶ原の供中口(ぐちゅうぐち)を防備することになります。
出陣に際して義彰は、両親に対して「天皇に対抗する意志は全くないが、藩命に反抗することもできない。一死をもって双方に臣節を全うする覚悟である。」と、告げたといいます。
出陣姿は烏帽子(えぼし)に直垂(ひたたれ)、弓矢を携えたものの忠節心から鏃(やじり)をはずした矢で西軍と応戦しました。
勝敗の帰結は早く、農兵を退去させたのち、一人丘に登り自刃しようとした時に流弾が当たり絶命、また銃傷後に自刃したともいわれています。あとで義彰の屍を検死したところ弓弦(つる)に辞世の句が結び付けてありました。
「あす散るも色は変わりじ山桜」
享年31、安達ヶ原の観世寺に眠っています。なお、大正7年(1918年)、東軍戦死者で唯一尊王義士として靖国神社に合祀されました。
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