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二本松ふるさと人物史No.24

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福島県二本松市

■不屈の自由民権運動家 平島 松尾(ひらしままつお)(1854~1939)

近代政治史黎明期を語る上で不可欠な事項は、各地に波及した自由民権運動です。二本松には政治結社「明八会」ができ、会長に安部井磐根(あべいいわね)が就任、しかし自由主義の根本的な考え方の相違から別の道を歩み、のち互いに政敵として竜虎を競い合った人物が平島松尾でした。 
松尾は安政元年(1854年)11月17日、勘定奉行平島正就(まさなり)の長男として旧郭内の一ノ丁に出生。漢学を藩教授の堀六石(ほりろくせき)に学ぶとともに、剣術・馬術・弓術・砲術も各々の藩師範に師事、文武ともに熱心精励で、成績は常に群を抜いていたといいます。 
戊辰戦争に際し、15歳の松尾は、抜擢されて御城番組諸口門番、次いで弾薬製造役を命じられました。そして藩領への西軍進攻にいたって、大砲方附を命じられ高田口に出陣。初めて戦争を体験したのでした。松尾はのちに「余の一生を通じて死すべくして死なざりし事は度々なりしが、此の時を以てその初めとす」と述べています。 
明治維新に際し、いち早く英語・洋学を修業。小学校教員となり、2年後に大蔵省に出仕、その2年後に帰郷し福島県属となり、退官しています。その決断となったのが、河野広中(こうのひろなか)との出会いでした。 
広中が主唱する自由民権運動に傾注した松尾は、民権思想啓発に奔走しました。明治15年(1882年)「自由は人の天性、自由を保つは人の道」のスローガンのもとに創刊された「福島自由新聞」の発行委員を担当。「人の自由なくしては新しい時代の政治は成立しない」とする進歩的な提唱は、新政府の厳しい弾圧に遭い、7号をもって廃刊となりました。民権運動は急速に退潮に追い込まれ、最高リーダー河野広中らが国事犯として捕らえられ、松尾も翌年に広中らと共に内乱陰謀罪で軽禁獄6年の刑を言い渡されたのでした。 
明治22年(1889年)出獄、翌年の第1回衆議院総選挙に自由党から立候補したものの、中立無所属の安部井磐根に9票の僅差で敗れました。しかし、その後も両者は政敵として7回の選挙戦を争い、通算3勝4敗の接戦激戦でした。磐根の政界引退後も4回当選し、自由民権政治確立に尽力、昭和14年(1939年)8月13日86歳をもって逝去。安達ヶ原公園に内閣総理大臣加藤高明(かとうたかあき)が篆額(てんがく)した、頌徳碑(しょうとくひ)が建立されています。

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