■眼科臨床医の権威 野地 菊司(のじきくじ)(1867~1940)
二本松の“眼科の父”として忘れてはならないのが野地菊司(のじきくじ)です。
菊司は、戊辰戦争動乱期の慶応3年(1867年)10月3日、二本松城下に出生。小学校卒業後、眼病に冒された父と貧困な家庭生活、幼い弟妹のことを憂い、一家を養う責任を痛感したといいます。
そのため、眼科を学び、父の病を治し、また多くの眼病患者を救おうと強い志を立て、二本松町の開業医・長沢良中(旧藩校医学助教授)に師事。福島医学校に入学し、のち猪苗代町の眼科医・宇南山誠一郎(文庵)のもとで2年間学んでいます。
明治18年(1885年)7月、長年の希望をかなえて上京。まずは内科医・本多懐直の書生となり、翌年3月浅草本願寺を会場として行われた内務省の医術開業前期試験を受験し見事に合格しました。
しかし、以前から健康を害していたため、いったん帰省し静養ののち、再度上京。そして後期試験を受験し合格、さらに眼科研究を続けるため、当時わが国の眼科医の第一人者といわれた駿河台の井上達也に師事し、ついには井上の助手長を務めるまでになったのです。
同22年(1889年)帰郷し、念願の眼科医を開業。5年後には、待望の病院新築を果たしました。
ある時、9歳の男の子に麻酔クロロホルムを投じて手術したところ、突然呼吸が停止し、心臓麻痺で死亡。原因は本人の特異素因であり、不可抗力として処理されたものの、菊司は自責の念に駆られ「今日の眼科界で世界的権威のドイツに留学し、より専門の眼科を研究することで、多くの眼患者を救うことこそ、自分の選択すべき道」と決心し、同43年(1910年)に旅立ちました。
ハイデルベルヒ大学眼科部でレーベル教授に師事。助手に採用され、より専門的な研究を短期間で重ね習得したのです。帰国後、野地眼科医の名声はますます高まり、患者は関東・東北は勿論、遠く北海道・樺太からも訪れ、入院患者は常に百人を越えたといわれています。
さらに、優れた臨床医として全国的に知られ、角膜かいようの手当をはじめ、白内障の手術では特に名声を博しました。また、町政に貢献し、ことに育英事業の振興に尽力しました。
昭和15年(1940年)2月25日、急性肺炎で逝去、享年73、光現寺に眠っています。
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