■日本農業経済学確立の先駆者 斎藤万吉(さいとうまんきち)(1862~1914)
日本の農業経済学の先駆者として大きな足跡を残したのが、斎藤万吉です。
万吉は、文久2年(1862年)3月6日藩士斎藤直温(なおあつ)の長男として、郭内(旧北条谷)に出生。4歳の時に生母と生別れ、6歳の時に戊辰戦争のため家を失うなど、一家の生活は極貧そのものでした。さらに、万吉は継母になじめず、父方の親戚の世話で時の県令安場保和(やすばやすかず)の書生となりました。安場の書生となった万吉は、明治5年(1872年)県内初の創立校である福島小学第一校に入学。14歳の時、安場に勧められ農事修学場(東大の前身)予科を受験、全合格者27名という難関を突破し、駒場農学校農業本科に入学。当時政府は近代化政策の一つに農業を掲げ、全国から優秀な人材を集め、農業近代化の指導者育成を積極的に推し進めていました。こうした中、万吉は特待生として、農学習得に傾注します。同15年(1882年)、万吉は郡山農業学校の教師に着任。同19年(1886年)同校が福島県尋常師範学校との合併に伴い、英語・農学・農場実習を担当することになりました。
万吉は反骨精神と同情心に富んだ性格であったと言われ、ほかの教師が洋服の制服を着用する中で、唯一人和服で、髪は伸び放題のまま、裸足で教壇に立ち、通勤姿は脚絆(きゃはん)にわらじであったといいます。また、早朝に福島市内を荷車をひいて馬糞や下肥を集めては実習農場へ運び、さらに育てた野菜類を市場に持ち込み、売るなど、生徒に対して自ら率先して実用に重きを置く学問を植え付けたのでした。明治22年(1889年)福島県農事試験場長に委嘱され、万吉の農学指導者としての名声は県下に広まり、本県農学界の第一人者の地位を築きました。しかし翌年、ドイツ農業経営学・農政学やドイツ語を学ぶため、一切の名誉・地位を投げ棄て上京。全てを習得し、同25年(1892年)農商務省に勤務、半年後退職し帝国大学農家大学に移り、のち助教授と実習農場長を兼務。さらに全国の農村を行脚して農村経済・農家経済の調査に大きな業績を残すと共に、近代日本における農業経済学の確立と普及に全精力を注ぎました。大正3年(1914年)9月2日逝去、市内根崎の長泉寺に葬られ、一周忌には教え子の手で境内に顕彰記念碑が建立されました。
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