■安達太郎(あだちたろう)
昔、田地(でんち)が岡に安達太郎という武士が住んでいました。この奥方は飯坂城主佐藤氏の娘照姫(てるひめ)というとてもきれいな人で、四歳になる子供もおり平穏な暮らしをしておりました。
この頃、京都から派遣された多賀城(たがじょう)の国司(こくし)は色好みで、国内の美女を我がものにしようと、常に非道をして困らせておりました。そして、飯坂城主佐藤氏に「田地(でんち)が岡の安達太郎の妻はおまえの娘で、たいそう美人と聞いた。その娘を私にくれ。」と差し出しを命じる無理難題を申しつけたのです。
佐藤氏は、思いあまり、婿を殺して、娘を差し出すほかはないと考えて、太郎夫婦には自分が病気と偽って、二人を飯坂城に招いたのです。照姫(てるひめ)の付き添いの賢い腰元(こしもと)が謀(はかりごと)を見破り二人に危急を知らせたので太郎は大いに驚き、照姫(てるひめ)を連れて帰ろうとしましたが、すでに田地(でんち)が岡は多賀城(たがじょう)の家来たちによって占領されてしまっていました。
そこでやむをえず、安達太良山の山奥にしばらく隠れ潜んでいました。やがて都に出た安達太郎は、この国司の数々の悪行を都の役所に訴え出たので、国司(こくし)は流罪(るざい)の処罰を受けました。
時が過ぎ、安達太郎は再び田地(でんち)が岡に戻り安達の郡司(ぐんじ)となりました。
『この話は、畠山(はたけやま)氏三代目の畠山国詮(はたけやまくにあきら)(幼名大石丸)が幼少のころの一つの伝説であるともいわれています。伊達行朝(だてゆきとも)事暦によれば、この田地(でんち)が岡を「国司(こくしだて)館」と呼び、国司北畠顕家(きたばたけあきいえ)が居館していたとも伝えられています。さらに源頼朝の奥州平泉征討(おうしゅうひらいずみせいとう)の時には、小野田藤九郎(おのだとうくろう)(安達盛長(あだちもりなが))も居館し「殿地が岡」とも呼んでいましたが、今は田地(でんち)が岡といわれています。』
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