■館藩の蚕種売買許可証
明治2年(1869)6月、松前藩主松前脩広(ながひろ)は領地と領民を返上しました(版籍奉還(はんせきほうかん))。これ以降、松前藩は館藩と呼ばれるようになります。明治3年9月の山形県設置により、館藩領の村山郡東根は山形県に編入されました。替地は伊達郡内34カ村、三万石余です。伏黒村もその一村でした。
当館の松岡家文書は伊達郡伏黒村の名主を勤めた家の古文書です。同文書には、館藩が発行した蚕種売買許可証が残されています。
蚕種売買許可証の表には、朱印「員数改印」と黒印「蚕種売買免許之印」が押印されています。さらに、「本郡三枚」「海外輸出」と墨書されています。裏の朱印は館藩の藩庁印「館藩」です。墨書は「辛未(かのとひつじ)八月四日」、「製造人岩代国伊達郡伏黒村彦右衛門」とあります。干支(かんし)の「辛未」は明治4年です。以上から、明治4年8月4日、館藩は伏黒村の蚕種製造人彦右衛門に蚕種紙(たねがみ)三枚の海外輸出を許可したことが判ります。
伊達市一帯は、江戸時代から蚕種(蚕の卵)製造が盛んな地域でした。安政6年(1859)6月の横浜開港以降、伊達郡の蚕種紙(蚕の卵を産み付けた厚手の和紙)は、海外市場へ大量に輸出されました。幕末から明治初年にかけて、蚕の伝染病が蔓延し、ヨーロッパの養蚕業は壊滅的状態にあったからです。梁川の田口半三郎は明治4年(1871)9月、蚕種の販路開拓のため、フランスへ向けて横浜港を出航し、翌年3月に帰国しています。半三郎には、その後も、フランスから蚕種取引の要請がありました(『梁川町史』3)。
このような時代背景のもとで、伏黒村の彦右衛門をはじめとする伊達郡の蚕種製造人の蚕種紙は、横浜港から輸出されたと考えられています。
▽令和6年度第2回企画展 ~姉妹都市協定締結40周年記念~
令和7年1月27日(月)まで
伊達市保原歴史文化資料館
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