■江戸時代の先祖調査
今から約400年前の延宝3年(1675)12月、仙台藩伊達家の家臣である落合勘左衛門(おちあいかんざえもん)・窪田権九郎(くぼたごんくろう)の2名が伊達郡にやってきました。当時の藩主・伊達綱村(だてつなむら)が先祖の地を調べるように命じたからです。2人は藤田・桑折を回り、梁川にもやってきました。
彼らの調査報告書に「町屋四百軒余」(「伊達信夫巡見仕候覚書(じゅんけんつかまつりそうろうおぼえがき)」仙台市博物館蔵)と書かれた梁川はにぎわっていたことでしょう。2人は梁川城に行きました。彼らが来る直前、梁川は上杉領から幕府領になり、梁川城も廃城になっていました。報告書に梁川城の建物の記載はなく、堀・土塁・池が描かれているだけです。城主のことは、「須田大炊(すだおおい)とその子どもが最近までいた」と簡潔に記しています。この「須田大炊とその子」とは、須田長義(すだながよし)と秀満(ひでみつ)のことです。上杉景勝(うえすぎかげかつ)に仕えた武士で、長義は大坂冬の陣(1614年)で活躍しましたが、その時の傷が悪化して亡くなりました。秀満は寛永2年(1625)に梁川天神社を改修していました。その後、寛文4年(1664)に幕府代官に城を明け渡し、米沢に向かっています。
落合・窪田2名の足取りをたどると、当時の状況が見えてきます。
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