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【観光特集】今こそ知りたい会津の茶道文化(1)

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福島県会津若松市

本市の茶道文化は約500年もの歴史があります。この特集では、本市の茶道にまつわる歴史と、現在の茶道普及の取り組みを紹介します。

■会津若松と「茶道」の深い関係
日本に茶の文化が広まったのは、鎌倉時代のことです。中国に留学した禅僧・栄西(えいさい)が抹茶の飲み方を日本へもたらし、より多くの人がお茶にふれたことで、茶道が広まる基盤ができました。その後、質素で礼法を重んじ、世俗を離れた生き方を理想とする茶の湯のスタイルが生まれ「侘(わ)び茶」として発展します。幽玄閑寂(ゆうげんかんじゃく)の境地を求める侘び茶は、京や堺の商人を中心に急速に広まり、堺の商人であった千利休が現代に繋(つな)がる茶道を確立します。しかし、豊臣秀吉の怒りにふれたことで利休は切腹を命じられ、千家の茶道は断絶の危機に瀕(ひん)します。その危機に動いた一人が会津領主・蒲生氏郷でした。

▽蒲生氏郷
利休七哲(しちてつ)の筆頭にあげられた文化人
蒲生氏郷は、豊臣秀吉の命により、天正18(1590)年に会津の領主となり、今日の会津若松の基礎を築いていきました。
氏郷は織田信長の娘婿であり、器が大きく勇猛な武将でありつつ、千利休の弟子として茶道に親しみ、特に優れた弟子とされる利休七哲の筆頭にあげられるほどの時代を代表する文化人でした。のちに利休が秀吉の怒りにふれて死を命じられた際、氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しみ、その子である少庵(しょうあん)を会津にかくまい、徳川家康とともに千家の復興を秀吉に働き掛けました。

▽千利休
茶道の基礎を確立した「茶聖(ちゃせい)」
堺の商人であった千利休は、無駄なものを一切省いた茶室や、茶道具に作法を一体化させた独自の茶の湯のスタイルを確立しました。これが江戸時代に入り「茶道」と呼ばれるようになりました。織田信長、豊臣秀吉の茶の指南役として活躍しますが、のちに秀吉の怒りにふれて切腹を命じられ、利休の子・少庵は蒲生氏郷により会津でかくまわれることとなります。
少庵はのちに千家を復興させ、少庵の3人の孫たちが現代に続く茶道の三千家(表千家(おもてせんけ)、裏千家(うらせんけ)、武者小路千家(むしゃのこうじせんけ))を創設しました。

▽茶室麟閣(県指定重要文化財)
蒲生氏郷・千少庵ゆかりの茶室
千利休の子・少庵が会津でかくまわれている間、氏郷のために建てたとされるのが「茶室麟閣」です。少庵自ら削ったと伝わる赤松の床柱などが現存し、当時の面影を感じることができます。戊辰戦争で会津藩が敗れ、鶴ケ城が取り壊される際には、麟閣は城下の茶人・森川善兵衛(ぜんべえ)(指月庵宗久(しげつあんそうきゅう))の自宅に移され、以後120年にわたって森川家で保存されました。市では、この氏郷・少庵ゆかりの茶室を後世へ伝えるため、平成2(1990)年に鶴ケ城本丸内の元の場所へ移築しました。

問合せ:観光課
【電話】39・1251

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