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おしえて博物館-五十九-

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福島県南相馬市

『渋沢栄一、報徳仕法を語る』

令和6年(2024)7月、「日本近代産業の父」といわれる渋沢栄一が新1万円札の顔として、登場します。実は、渋沢は報徳仕法と少しだけ関わりがあります。
江戸時代に中村藩が導入した報徳仕法は、廃藩置県によって終わりを迎えました。しかし、報徳仕法に尽力した富田高慶ら旧中村藩士は、明治政府の要人に報徳仕法継続を働きかけます。その一人は西郷隆盛でした。
明治5年(1872)3月、西郷に面会した富田は、報徳仕法継続の協力を西郷から得ることに成功しました。
そして、当時大蔵省に勤めていた渋沢に相談するのがよいと考えた西郷は、渋沢の自宅を訪ね、相馬の報徳仕法を残してほしいと頼みます。これに対して渋沢は「日本の興国安民法(報徳仕法)は棄(す)てて省みずに、相馬の方のみ残せとは余り判らぬお話である」と答えました。一見すると、渋沢が何を言いたかったのかよく分かりません。
渋沢は、報徳仕法を、歳出の限度額となる予算を設け、それよりも収入が多い時に、その剰余金で殖産を図る方法と捉えていたようです。
当時財政難にあえいでいた大蔵省には、予算の限度額を超えた要求が各省から強く出されていました。そして、その要求を承認していたのが、参議という政府の中枢にいた西郷その人だったのです。
つまり、渋沢は、西郷を中心に各省が要求をしていることは、今回西郷が頼んできた内容と矛盾しているのではないかと指摘したといえます。この渋沢の指摘に対して、西郷は、頼みに来ただけのつもりが叱られてしまったと言い残して渋沢の自宅を後にしました。
その後、中村藩の報徳仕法の継続は実りませんでしたが、渋沢の回顧談に記されるこのエピソードは、報徳仕法継続活動の一端を語るとともに、大蔵省の一官吏でしかなかった渋沢の意見を、明治維新の英雄である西郷が素直に聞き入れたという二人の人柄を語るエピソードでもあります。

問合せ:市博物館
【電話】23-6421

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