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昭和村史料探訪記 vol.46

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福島県昭和村

地域おこし協力隊 松尾 悠亮

◆小中津川名主家文書の紹介(2)明治時代の北海道移住資料(壱)
今回昭和村へ寄贈していたいだいた資料の中には、明治時代、昭和村(当時は野尻村・大芦村)から北海道へ移住した人のことが分かる資料も入っていました。

1.栗城小太郎からの近況報告が書かれた書付(明治42年〔1909〕、からむし工芸博物館所蔵)
これは、天塩(てしお)国 上サロベツ原野 栗城小太郎から栗城三九郎にあてた手紙です。
〔参考〕『昭和村の歴史』152頁
出寄留者の行先は不詳であるが、広い新天地をもとめて海外へ、北海道へと移民した人もいる。北海道へは明治初年に本名宗三郎が開拓に移民したのがもっとも早い。明治39年(1906)には小中津川の栗城小太郎がサロベツにいき、引き続いて翌年の春、松山の佐々木登(当時11歳)が小太郎をたよって渡道し、サロベツの開拓に従事し、酪農で成功している。
小太郎の移住したサロベツ原野とは、北海道北部に位置し、現豊富町(とよとみちょう)・幌延町(ほろのべちょう)(北海道天塩郡、豊富町は稚内市の南)にまたがる湿原です。サロベツ湿原とも言います。ラムサール条約・「利尻礼文サロベツ国立公園」に指定されている場所です。
この書付には、小太郎が書いた歳暮・元旦・42歳の厄除け祈念の和歌(3首)、「開墾ノ情状ヲ列挙シタル軍歌ノマネ」が書かれています。

2.「開墾ノ情状ヲ列挙シタル軍歌ノマネ」(前半)
全文掲載しますが、紙幅の都合で今月はまず前半を載せました。前半は、北海道開拓生活の苦労が書かれています。七五調を楽しめるので、よろしければ音読してみてください。
本道移住開墾ノ、容易ナラサル概略ヲ、一々列ネテ挙クルナラ/先ツ未開地ト云モノハ、我国開闢其以来、人ノ住ミタル例ナキ/原野ニ入リテ住居ント、決心定メテ居リナガラ、思案ノ外ノ困難ハ/西モ東モ北南ミ、方位モ知ラヌ草木原、一戸分トテ五町歩ノ/地所ノ内ニゾ小屋ヲカケ、今マテ熊ノ捷ミシ藪、便リトスヘキ人ハナシ/諸国ノ人ノ集リテ、カシコヤコヽニ小屋ヲ見ル、隣リノ小屋ヲ訪ハンニモ/百間或ハ二百間、交通スベキ道ハナシ、或ハ笹藪泥炭地/歩行極メテ困難ノ、場所ヲ始メテ苅別テ、向フ三軒両トナリ/語リ合セテ相共ニ、親族トテモアラザレバ、或ハ三戸又ハ五戸/是ニ伍長ヲ定メ置、仁義交際何事モ、規約ヲ作リ其下(モト)ニ/権利ト義務ト抑制シ、独立自営ヲナサントテ、新地ヲ開キ蒔作ル/鳥ヤケモノヤ霜嵐シ、アラユル害ヲ被(コーム)リテ、思フ収穫更ニナシ/土地ノ良否モアルケレト、着手当初ノ壱二年、一年分ノ食料ヲ/取リ入ル人ハ稀ナラン、十ガ八九ハ不足ナリ、ソコテ婦女等ハ堪(コライ)兼/小言コボスモ無理ナラス、小屋ハ豚(イノコ)ノ巣ニ均(ヒト)シ、食料トテモ亦シカリ/其食料トシタナラバ、麦稲黍ガ第一ニ、芋トカボチヤガ之ニツゲ/衣服ハ如何ト出タナラ、在ル丈着物ハ着果シテ、ホゴロビ縫ヤ洗濯ノ/手間ハ貧乏暇ナシテ、サナカラアラメニサモニタク、新調スベキ銭ハナシ/地獄ノクツウモ如何セン、仮令(タトイ)宿世ノ因縁モ、当地エ移住致サズバ/斯ル貧苦ハセマイモノ、残キ心モ一理アリ
※「/」は改行している所。
〔続〕

※史料に登場するサロベツ原野は後に国立公園に指定されました(昭和49年)。国立公園指定の背景にある自然保護という思想は、小太郎が移住した当時まだ一般に広まっていなかったという時代背景を考慮して、ここでは原文のまま掲載しました。
元旦の歌は、「人住みて熊すむ藪ハ畑と化し御国の為にみのる(実る)作もつ(物)」と書かれていて、開拓の大変さ、収穫の喜びがうかがえます。
※画像など詳しくは本紙をご覧ください。

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