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【連載】昭和村の歴史と文化~第13回~

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福島県昭和村

昭和村文化財保護審議会委員長
菅家 博昭(大岐)

◆谷ヶ地のシダ植物 ferns
冬期間、自動車での博士街道の通行が可能となった。
ご存じのように、2023年9月に博士トンネルが開通し小野川から会津高田への行き来が一年中できるようになった。
トンネルを出た会津高田側は松坂と言うが通称は「谷ヶ地(やかじ)」と呼ぶ。博士トンネルから次の松坂トンネルの間の、落葉した樹林の林床は、見事なシダの群落が続く。何種類あるのだろうか?形状が異なる古代の植物群落が積雪前の短い期間に姿を見せる。ほんとうに美しい。
農林水産省東北農政局会津農業水利事務所による新宮川ダム建設により水没するために谷ヶ地(松阪)集落の58戸、193名が1983年9月に離村した。40年前のことである。私が切り花栽培を開始する前年のことで営利切り花生産の勉強をはじめたころであった。
谷ヶ地は断層なのかどうか、アルファベットのV字形に鋭く切れ込んだ谷の、博士川と大滝川の合流部に谷ヶ地とよぶ集落を形成し、標高は520メートルである。
この村で生まれ狩猟も経験した林業家の栗城惣市氏(1925年生、故人)と知り合い、1994年11月26日に会津若松の周東一也氏(昨年逝去)が主宰の「つなぐ塾」の若い仲間とともに集落跡を歩きながら話を伺ったことがある。
集落の周囲の山の斜面は中腹まで杉が植えられている。栗城氏は「そこはカノ(焼畑)の跡だという。谷ヶ地は水田が無く、カノから収穫される雑穀と山のものに頼っていたので、杉は植えないことを昔から申し合わせていた。カノに杉を植えたのは戦後のことに思う。だから太い杉はまだ無いという」
栗城氏の話から、森林伐採と土地利用に関する集落の取り決めが存在してたことがわかる。はたしてこうした制限はなぜ起きたのだろうか。
『新宮川ダム水没地区松阪(谷ヶ地)民俗調査報告書』(会津高田町 1985)によれば山林使用収益権に関する集落間の取り決めを記した松阪38戸連名の協議確定書が成立した明治28(1895)年旧4月から制限無くブナ・ナラなどの伐採も盛んに行われ、炭焼きも自由にできるようになったとある。逆に言えばこの時期まで伐採が内部的に制限されていたのである。それはなぜか。
報告書では谷ヶ地の森林資源は長い間の乱伐で採取可能な地域は皆伐されていたのではないかと推察している。
文禄3(1594)年7月の蒲生高目録で「中村、入屋加地、中在家、下屋加地」と谷ヶ地各集落名があらわれ、石高は97石である。文化15(1818)年は100石。安政3(1856)年は100石。267年間に石高の増加が無く、つまり耕地は早い時代に拓き尽くしていたことがわかる。
安政3(1857)年当時は、柄麻、ぜんまい、鍬柄、下駄、炭、真綿、鑞、漆が産物として記録されてある。また年貢をかけられた漆の木が1200本ほどあったのではないかともしている。

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