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昭和村史料探訪記 vol.50

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福島県昭和村

地域おこし協力隊 松尾 悠亮

◆小中津川名主家文書の紹介(6)『公私摘要』の紹介〔参〕
引き続き『公私摘要』に書かれた幕末期の昭和村の事件を紹介します。

1.野尻に代官所を建設
慶応3年(1867)、野尻に会津藩の代官所が建設されたことが、『公私摘要』には書かれています。3月に代官服部左膳、金山谷掛・伊南北掛の役人計3名が家臣を引き連れて赴任し、代官所が新しく建てられました。建設された建物は、本陣1軒(事務所)・長屋造(住居)2軒・囲で、建設費用は550両余と書かれています。

2.戊辰開戦の情報と戦争の準備
慶応4年(1868)1月に京都郊外で勃発した鳥羽・伏見の戦いに負けた会津藩は朝敵とされてしまいました。『公私摘要』には、(慶応4年)2月17日・18日に田島陣屋から出された御触の写しが載っています。17日付では、もし(今後)会津で戦争が起こり、その戦争で万一戦死したり負傷したりする人が出たら手当を与え、さらに戦功を上げた者へは御取立があるだろうと述べています。18日付では、京都に行っていて先の鳥羽・伏見の戦死した人がいないか調べて至急報告するよう村役人へ命じました。

3.只見の水害と代官丹羽族の切腹

慶応4(明治元)年7月、越後長岡で、長岡藩と新政府軍の戦いが行われる中、黒谷・和泉田両組の村々から15歳から60歳までの人(男性)は全員八十里越の人足に出るようにとの触が代官から出されました。また、8月2日には、只見の代官所へ野尻組各村の代官所の名主が呼び出され、八十里越の整備のため人足を出すようにとの命令も下りました。長岡で戦う長岡・米沢両藩の人が逃げて来れるようにとの計らいだったようですが、『公私摘要』には「只見近村ハ臨時人足相当(あいあたり)前代未聞之混乱難尽筆紙候(ひっしにつくしがたくそうろう)」と書かれています。
この件は悲劇を生むことにもなりました。同年8月5・6日の只見での大雨・洪水により、叶津川は橋が流されてしまい兵糧米ほか物資を送れなくなってしまいました。そこで、八十里にいた人から餓死者を出してしまいますが、その責任を取り代官丹羽族は切腹しました。「誠以取立方始名主仲間共ニ至る迄進退途ヲ失ひ候次第…」と、丹羽族切腹は多くの人に不安と衝撃を与えたようです。
〔続〕
※画像など詳しくは本紙をご覧ください。

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