地域おこし協力隊 松尾 悠亮
◆小中津川名主家文書の紹介(7) 『公私摘要』の紹介〔肆〕
引き続き『公私摘要』に書かれた幕末期の昭和村の事件を紹介します。
1.慶応4年(明治元)のからむしの値段
『公私摘要』初遍には、「諸品直段高下」として、慶応3年と4年(明治元)のからむし(青苧)の値段が、米・塩・麻と一緒に書かれています。米の値段は、金1分につき、米4升7合(慶応3暮)→米8升5合(慶応4年4月)→米5升5合(同7月)→米5升(同7月下旬)と変遷しています。塩は、1俵につき2両の値段です。麻は、慶応3年は1貫800匁が1両で売れたのが、慶応4年には2貫750匁につき1両となり、値段が下がっています。
2.昭和村の戊辰戦争
『公私摘要』中の大芦戊辰戦争の記事は、すでに馬場勇伍氏によって紹介されましたが(『乱雲戊辰の晩秋』)、改めてみてみようと思います。
(1)慶応4年9月3日から、西軍(史料中は官軍と表記、以下同)が八十里へ「御乗込」
(2)同8日七ツ時分、10人程(おそらく西軍方)が布沢から中向へ来て、会津方の「落人」・「長岡浪人」がいないか、預かった武器がないか厳しい探索があった。9日には下中津川、10日には小中津川、その後、柳沢を経由して琵琶首・小野川・喰丸にも探索が入った。
(3)同10日に西軍600人「御操込」
(4)同11日暮に喰丸峠へ会津方7、80人が来て、小野川着。喰丸沢で西軍と戦闘。
(5)同24日、大芦合戦。加賀藩・高崎藩(西軍)軍が大芦見沢付近(舟ヶ鼻越ニ而見沢入)に陣を張り、戦争になる。大芦村29軒に放火され焼失し「郷中大騒動」に。小中津川は田ノ口へ(西軍が)引き取り、愛宕山・「ハゲ山」を御固、喰丸は尾張藩五味織江隊が御固、兵糧方の炊き出しは小中津川の名主宅が担当し、握り飯を提供。下中津川は八幡入・矢の原が御固になった。24日の暮七ツ時(16時)に会津方は転石峠を経て出て行った。
(6)同25日、舟鼻・鳥居峠で打合があった。田島・伊南・伊北が会津方になり、叶津にあった西軍の物資も会津方に奪われたが、若松城の降伏(9月22日)の情報が伝わったところで戦意喪失し、残っていた会津方も降参し、以降は戦いなし。
只見方向から進軍してきた西軍、田島・美里方向から進軍してきた会津方が、丁度大芦でぶつかって戦いが起きました。この時の様子は「此時之騒動村々家々取片附を始、東西之奔走、前後之差別無之候」と表現されています。大芦村も巻き込まれ、2・3人の戦死者が出ました。
戦後処理では、会津藩の山内大学弟横田大助ら3名が玉梨に潜伏していたところ、西軍に見つかり、大助は切腹、他2名は自害しました。さらに、10月3日には会津方に加担した廉で横田村の一名が野尻で打ち首という厳しい処分を受けました。このように多くの血を流し、新しい明治の時代を迎えました。
※画像など詳しくは本紙をご覧ください。
■おしらせ
「昭和村史料探訪記」は、令和元年12月から連載しておりましたが、今月で連載を終了させていただきます。
村民の皆様には時折「広報読んでますよ」と声をかけていただくことがあり、皆様の声が励みになっていました。長い間御愛読ありがとうございました。(松尾悠亮)
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