菅家 博昭(大岐)
◆富山の近代
忙しい花作業が続くなか、8月7日午前、健康診断受診のため小中津川のすみれ荘に行った。偶然、大芦在住の須田雅子さんにお会いし京都芸術大学に提出した論文の抜き刷りをいただいた。苧麻とはカラムシのことで、「苧麻(ちょま)と人のあいだにあるもの‒アミニズムの視点から‒」(『京都芸術大学芸術学研究室 芸術学研究7』(2024年3月刊)は宮古島と昭和村での綿密な聞き取り調査と、ていねいに分析した記録である。これはインターネットでもPDFファイルで公開されている。
さて、富山県のカラムシについて5月の報告が中途になっているが、以下、続きについて記載する。
2022年3月29日、南砺市小院瀬見、福光にて堀宗夫さんらの当地でのアサ産業について聞き取り調査を進めた。そこで西井満理さんによる聞き書きの記録と南砺市でのアサ産業について古老の話を聞く。
2024年5月13日、その現地である集落・立野脇を西井さん、堀さんと歩いた(6月号に掲載)。南砺市に隣接する砺波(となみ)郷土資料館で「砺波地方の麻と出町の麻問屋 神田商店」という展示会が2019年に開催されていることを知り、その展示図録を入手するために、小院瀬見の調査を終えてから資料館に向かった。職員の方から、資料を購入し、いくつか立ち話も出来た。以下その資料により明治大正期の富山県内の麻産業の様子をみる。
図録によると「砺波地方では15世紀から麻の記録が確認され、近世初頭に砺波郡五郎丸村・八講田村(小矢部市)が年貢米の代わりに布を加賀藩に納めた。その後麻の生産は戸出・福光に移る。福光では大麻繊維を上州(群馬)や野州(栃木)から仕入れ、蚊帳、畳のへり、祭りの幕などの製品を作った。経糸に撚りのかかった苧麻の紡績糸を使用し、緯糸に手績みの糸を使い、高機で福光麻布が作られた。戦前までは苧麻も自然に生えており道ばたの苧麻を繊維にし家族用の仕事着などを作った」とある。
神田商店では、明治23年から大坂製麻から紡績糸を仕入れ、25年からは下野麻紡績会社から糸を仕入れている。下野との関係からその後、帝国製麻の代理店になり飛躍。大正期には数万疋の布を織り、仕入れ大坂方面に販売している。
明治43年には6トン余の麻を買い入れ、大正時代には第一次世界大戦に伴う麻需要(軍服等)の増大、大正4年には中国で生産された南京麻(カラムシ)は国内産の10倍に及び、大正11年には麻買い入れ量が20トンになった。
大正13年の18トンの麻買い入れのうち92パーセントが南京麻(カラムシ)、野州麻が5パーセント、上州麻と奥州麻が約1パーセント、地元の麻が0.03パーセント。この時点で地元の麻が6キログラムある。
明治大正期で、地元の麻栽培が減少し道ばたのカラムシ利用も少なくなることがわかる。なぜ富山ではこのように早く近代化による繊維植物の変化が来たのかを考えたい。賃機(出機)産業が拡大し、自家用生産も少なくなっていく。それが早い。
※詳しくは本紙をご覧ください。
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