■「懐かしきチンドン屋」
路上からチンドン屋が消えて久しい。小学生の頃、白河のマチは楽しかった。店が立ち並び多くの人で賑(にぎ)わっていた。七夕、だるま市、サーカス、映画館。特に目を引いたのはチンドン屋。かつらに厚化粧。宣伝用の看板を背負い、太鼓や三味線を打ち鳴らす。珍妙な一行が口上を述べながらチラシを配り、街中を練り歩く。面白くて後をついていった。
江戸では商品を担いだ〝ぼて振(ふ)り〞が、町中で売り歩いていた。1845年、大阪の法善寺(ほうぜんじ)を拠点に飴(あめ)売りの一人「飴勝(あめかつ)」が竹の鳴り物と売り声で人気を博した。口上の見事さから寄席(よせ)の客入りを請け負うことになった。チンドン屋の元祖。跡を継いだ勇亀(いさみかめ)は、歌舞伎の「東西(とざい)、東西(とうざい)」の口上をまねた。「東西屋」と呼ばれ、街頭宣伝業の代名詞となる。
東京では、大阪出の秋田柳吉(あきたりゅうきち)が木村屋のアンパンを売るため楽隊を用いた。太鼓を叩(たた)き、洋装した男女が街を回った。開店披露をすることから「披露目(ひろめ)屋や又は広目屋(ひろめや)」と呼ばれた。やがて、口上中心の東西屋と、楽隊を伴った広目屋が一体化し、後のチンドン屋スタイルに近づく。
明治も末になると新聞広告等が主流になる。都会での大編成による宣伝は難しくなり、地方に舞台を移し4〜5人編成で街回りをするようになる。大正になると、鉦(かね)・締(しめ)太鼓・平胴(ひらどう)太鼓を組み合わせ、一人で演奏できる太鼓セットが考案された。多くの東西屋・広目屋が用いるようになり、後にチンドン太鼓と呼ばれた。
昭和の初め、トーキーが無声映画にとって代わる。楽士は失業、旅役者や寄席芸人も映画に圧倒され、チンドン業界に入ってくる。派手な衣装にチンドン太鼓、楽隊という様式ができた。基本は4人。幟(のぼり)を持ちおどけ姿でビラを配る者。胸から太鼓をつるし口上を述べる者。芸者や町娘に扮した三味線の女性。そして黒っぽい背広のクラリネット吹き。
チンドン屋の第1次全盛期は昭和7年頃から15年まで。恐慌から景気が回復し一挙に注文が増え、その数は3千人に昇った。戦時中は息を潜めた。第2次は朝鮮特需の昭和25年から15年間ほど。急速な経済発展で街に活気があった。路上に太鼓やクラリネットが響いた。
社会は変わる。生活空間の路上は自動車に占有される。郊外にショッピングセンターができる。街から魚屋、青果店、電気屋、映画館が消える。チンドン屋は次第に居場所を失っていく。同時に街から生活の匂いと温かさが薄れていく。
身の回りには、辟易(へきえき)するほどテレビやスマホの宣伝が溢(あふ)れている。ラインで手軽に連絡でき、アマゾンで簡単にモノを入手できる。効率やコスパが最優先の時代。だが効率一辺倒では心のバランスを保てない。人は決して合理的にできていない。衝突する利害を調整し、じっくり心を交わしながら長い歴史を生きてきた。ローマやモンゴル帝国は、効率を強いず緩やかに繋(つな)がったから長続きした。
要領が悪かったり、役に立ちそうもない者は端に追いやられる。『釣りバカ日誌』の浜崎伝助(はまさきでんすけ)はダメ社員。だが社員の心の安定剤になっている。日本社会は余裕を失っている。効率を求めるあまり〝無用の用〞の大切さを忘れている。
大衆演劇がオバ様方の熱い支援を得、落語や講談、歌舞伎や狂言が根強い人気を保っているのは何故か。人の喜び、哀しみ、情、忠義といった生の感情が伝わるからだろう。今も各地の祭りや縁日は多くの笑顔で満ちている。チンドン屋がしぶとく生き残っているのも、これらと相通ずるものがあるからだろう。
近頃はユーチューブで人気になり、店舗や結婚式などからお呼びもかかっているそうだ。若者が昭和歌謡に惹(ひ)かれるように、時代遅れの広告業に新鮮さを感じるのかもしれない。チンドン屋は日本独特の路上の文化であり、平和の象徴だ。
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