■「旗本夫人が見た天保の江戸」
天保年間。江戸城にほど近い九段下に一人の旗本夫人がいた。井関隆子(いせきたかこ)。一旦嫁いだがすぐに離婚。10年ほど後に再嫁する。夫の井関親興(いせきちかおき)は将軍の近くに仕える中級旗本。19歳上だったが仲睦まじい。子の親経(ちかつね)も孫の親賢(ちかたか)も、実の母・祖母のように敬った。親経は大奥と外との取次役に就く。固定給に役職給を加え千俵取りになり、経済的に恵まれていた。
隆子は中国・日本の古典に通じ、本を読み、歌を詠み、ものを書いた。世事にも興味津々(しんしん)。噂話や瓦版(かわらばん)にも耳をそばだてる。城内の動きは子や孫(将軍の金銭や調度品などを管理する役に就く)から直に伝わる。大好きな酒を飲みながら、老中や大奥の内情を聞いていた。
天保11年から5年間(56~60歳)、膨大な日記を綴(つづ)った。元旦、初午(はつうま)、雛祭、端午の節句、山王祭、七夕、十五夜、神田祭などを詳細に記録。また、花見の頃の上野、隅田川の様子や浅草の見世物、両国・佃島の花火など江戸の風俗も活き活きと描写している。初めはつれづれの慰めに綴っていたが、幕政の激震から後世に伝えようとの意識に変わっていく。
時代は動く。大御所家斉(いえなり)が没する。老中水野忠邦(みずのただくに)は間髪を入れず家斉側近を罷免。直ちに天保の改革に着手する。隆子は「何事も節約し、驕(おご)りを省き、賄賂などによる昇進の人事も改め、その上武術は平和な時代にも忘れず励むよう仰せを出された…世間でもこの命令に異を唱える者はいない」と好意的に綴る。
三方国替え(川越藩が庄内藩へ、庄内藩が長岡藩へ、長岡藩が川越藩へ)の命が出される。「庄内の酒井家は開闢(かいびゃく)以来の名誉ある家なのに、誠に心苦しいことだ…。出羽(でわ)の民が殿様の変わることをひどく悲しみ、駕籠訴(かごそ)に及んだ故に、未だ国替えは行われない由である」隆子は大義のない国替えに懐疑的だった。
江戸・大坂近郊の大名・旗本の領地を幕府の直轄地にするとの命には「多くの人はあきれて不満顔だ…祖先が身を危険にさらして戦い、その代償として賜った土地である。国の藩主に咎とがめがあった時は国替えが行われてきたが、この度の所替えは何の罪もないのに行われようとしている。また収入の多い所を選んでいるのも疑問である」と憤慨する。
余りの批判に、3か月後撤回された。「利によって行えば恨み多し。過日の命は余りに筋が通っておらず、世間の人は誰一人納得しないだろう」隆子は改革への疑念を強め、筆誅(ひっちゅう)を加えるようになる。
隆子は忠邦を「三方国替えは忠邦によって計画されたもの。世間には節約するよう厳しいお触れを出し、これも将軍のためといいながら、自分自身の領地は増やしてもらっている。また厳しく禁止されている賄賂なども忠邦は何事につけても受け取っている」と手厳しい。
一方、寛政の改革を推進した松平定信については「その頃世の中は贅沢(ぜいたく)に走り、人の服装なども華美に流れていたが、定信はことごとく改めた。自分自身の生活を全面的に切り詰め、賄賂などはいうまでもなく追従(ついしょう)さえも嫌った。掟は厳正であり、政策にいささかも私情を差し挟まなかった」と高く評価する。
老中罷免。「将軍様の威光を借りて自らの政策を進め、人々はしぶしぶ従ってきた。この度の処置に人々は万歳を唱えて喜んでいる…政治に関わる人は人々を慈しむ心こそ大切である」隆子は改革の良い点を評価しながらも、あくなき権力欲、私心の多さを厳しく批判している。
『日記』は理知的・合理的な批評精神で貫かれている。迷信を嫌い、家相や墓相の類いを不要と一蹴する。西洋人は地球は円いというが、地球の外に出ずしてそう断定できるのか?隆子は今という時代を歴史の流れの中で捉え、そこに生きる〝人間〟を見つめた。江戸の末期、近代への確かな眼差しを持った才女がいた。
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