「ある芸術家とグレートマザー」
「本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の大宇宙」展が開催された。戦国末の激動の時代。光悦は、刀剣の鑑定を家業とする京の上層町衆に生まれる。一方、書・陶・蒔絵(まきえ)など多様な分野で活躍した。本阿弥家は室町時代から刀の研ぎ、磨き、目利きで名を成し、家康や加賀前田家の信頼も得た。また、家業への強い誇りと、法華宗(ほっけしゅう)への厚い信仰の下、自己に誠実な生き方を貫いた。
信長、秀吉、家康と覇者が変わる。商工業者の生き残りも熾烈(しれつ)。そこを堅実性と篤実さで乗り切った。鑑定家としての光悦の評価は高いが、歴史に名を刻んだのは文化人としての実績。光悦は寛永の三筆の一人。飛翔する鶴を緩急自在に描く俵屋宗達(たわらやそうたつ)の下絵に、肥痩(ひそう)の変化に富む筆体で散らし書きする。光悦と宗達は、尾形光琳(おがたこうりん)へ続く琳派の創始者となる。
利休(りきゅう)の高弟、武将古田織部(ふるたおりべ)に茶の湯を師事し、自ら茶碗も作った。轆轤(ろくろ)を使わない箆(へら)削りの赤焼き・黒焼きの楽茶碗(らくじゃわん)は、型にとらわれない闊達(かったつ)さがある。光悦蒔絵は主題を古典文学から取り、蓋(ふた)を高く盛りあげた奇抜な形態。鮑貝(あわびがい)や鉛の金貝(かながい)を用いた意匠(いしょう)も斬新な発想だった。
町衆の多くが法華宗に帰依(きえ)していた。日本に限らず、お金を扱う商工業者は低く見られがち。だが法華宗は現世の利益を肯定した。生業に励み、創作活動が仏の道に近づくとされた。信仰が職業倫理に結びついている。光悦の子孫が本阿弥家の生き方を描いた『本阿弥行状記(ほんあみぎょうじょうき)』に、光悦と母妙秀(みょうしゅう)の興味深い逸話がある。
父光二(こうじ)は信長の信を得ていたが、ある者の讒言(ざんげん)で怒りを買い謹慎。妙秀は鹿狩りに向かう信長の前に突如現れ、馬の口に取りつく。「自分は光二の妻。夫の件は誤解です」と釈明。「憎き女め」と鐙(あぶみ)で蹴とばす。間違えば首が飛ぶ!しかし、夫に咎(とが)があれば妻も知らない筈(はず)はなかろうと許した。なんと剛毅(ごうき)なことか。
石川五右衛門が盗みに入った。蔵には預かり品もある。だが妙秀は「有名な刀だからすぐに足がつく」と悠然と構えた。かえって「盗みに入ったばかりに処刑されるのは心が痛む」と小袖(こそで)を寺に持たせ、犯人が見つからないように祈念してもらった。なんと慈悲深いことか。
妙秀の婿の家が焼けた。あら嬉しいこと!光悦が咎めると「あの者の祖先は慳貪(けんどん)。人の宝を奪い高値で売り飛ばした貯えがあの蔵にある。罪深いことをしたのだから、いずれ難に遭うと思っていた」。妙秀は貪欲さを嫌った。人を蹴落とし富むよりも、貧しくも誠意ある人を尊んだ。
長年の友がいた。ある年の大晦日、その家に寄ると夥(おびただ)しい人で埋め尽くされていた。出入の者に何事か聞く。「この家は一年間物を納めた者、ここで働いた者を一堂に集め、大晦日の夜半一斉に支払う。即ち、一度に支払いをすれば多少の勘定が合わずとも、受け取って帰らざるを得ない」青ざめる光悦。己の不明を深く恥じた。いつか報いを受けようぞ。
子や孫が高級な衣服を妙秀に持参する。すぐに裁ち切って帯や頭巾(ずきん)、手拭(てぬぐ)いに仕立てる。銭をもらうと箒(ほうき)、火箸(ひばし)、糸、木綿を買う。そして、それを貧しい者らに与えてしまう。妙秀は90歳で亡くなるが、単衣(ひとえ)や袷(あわせ)数枚、木綿のふとん、浴衣、布の枕ぐらいしか残っていなかった。
光悦の生活も簡素。物への執着はない。高価な茶器も惜し気なく与え、自らは質素なもので茶の湯を楽しんだ。母子(ははこ)は生きる上で何が必要で何が必要でないかを、また多くを持てば持つほど心の自由を失うことを弁(わきま)えていた。低く暮らし高く思う。光悦は富貴や栄達を願わず、風流の世界に身を置くことを尊しとした。西行(さいぎょう)や兼好(けんこう)、良寛(りょうかん)の清貧の気風に近い。
妙秀ありて光悦あり。二人の思想が本阿弥家の家訓となり子孫の生き方の規範となった。今に残る光悦像は大きな福耳に穏やかな顔。恵比須様のような総合芸術家は、宇宙のように深淵で果てしない。
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