■「台湾総統が尊敬した〝日本人〟」
台湾の新総統に頼清徳(らいせいとく)が就任した。民進党としては3期連続だが得票率は40%。立法院でも過半数を取れず、苦しい政権運営になるだろう。だが頼は逆境に強い。台湾北部の貧しい炭鉱労働者の家に生まれ、生後百日で父を亡くす。母は炭鉱で真黒になり働く。母は頼を医師にさせたかった。息子はひたすら勉学に励む。
難関の台湾大・台南(たいなん)の成功(せいこう)大医学部で学ぶ。成功大附属病院の内科医となり、腕の良さと実直な人柄で慕われた。頼は初めての直接投票による台湾省長選挙で、医師会を代表し民進党候補を応援した。これが政治との出会いとなった。貧困をなくし、社会正義を実現したいとの溢(あふ)れる思いが政界へ向かわせた。
2010年、台南市長に就任。徹底した現場主義で諸問題を解決する。強い信念と実行力が中央政界の目にとまる。その後行政院長(首相)から副総統に昇格。頼は台湾きっての親日家。誠実・勤勉・奉仕などの日本的精神が刻まれている。2014年3月13日。頼市長はある人の「命日」にあたるこの日を、台南市の「正義と勇気の記念日」に制定した。
その人は湯(とう)(坂井(さかい))徳章(とくしょう)。父は熊本出身の警察官坂井徳蔵(さかいとくぞう)、母は台南生まれの湯玉(とうぎょく)。徳蔵は強い正義感と反骨精神を持つ「肥後(ひご)もっこす」。現地人の抵抗に手を焼く台湾に赴いた。ある時楚々(そそ)とした女性にひかれる。当時、日本人と台湾人の結婚は許されなかった。だが、出世や周りの目を気にする男ではなかった。
1915年、徳章8歳。数百人の暴徒が派出所を襲った。事前に察知した徳蔵は『徳章、声は絶対出すな。玉、子供たちを頼む』と裏口へ逃がした。激しい攻防の末落命。徳章一家は困窮する。玉は布製ボタンづくりで生計をたてる。
金のかからない師範学校に入学したが、2年で退学。製糖工場で働きながら学び、父と同じ20歳で警察官になる。精勤にして優秀。順調に出世する。だが、有力な日本人のひき逃げに手心を加えず左遷される。こんな組織にいても希望はない。台湾人の人権を守り、法の下の平等を実現するには外へ飛び出すしかない。
文筆家で名をなしている叔父の又蔵(またぞう)を頼り東京に向かう。目指したのは超難関の高等文官試験司法科。中央大学の聴講生になり猛勉強。それは鬼気迫るものだった。抜群の記憶力と負けん気は奇跡を呼んだ。昭和16年10月、34歳で合格。その後行政科にも合格。さあ台湾に帰ろう!昭和18年7月、船上の人となった。
9月、台南市内に弁護士事務所を構えた。時代は大きく動く。日本は敗れた。徳章は蒋介石(しょうかいせき)の「台湾同胞よ、祖国の胸に帰れ」を警戒した。教育水準や道徳心の低劣な大陸人が入ってきたら騒動になる。案の定、枢要なポストを独占。米・砂糖・塩は全て大陸に運ぶ。激しいインフレが起きる。不満が鬱積(うっせき)していた。
1947年2月27日、台北市で闇タバコを売っていた女性に役人が暴行を加えた。群衆の怒りは爆発し、一挙に全土に広がる。〝2・28事件〟の勃発だ。官庁や警察署が襲われる。蒋介石は秘かに精鋭軍を上陸させ、各地で虐殺が起きた。知識人を中心に3万人が犠牲となる。
台南でも大学生たちが決起する。徳章は「正規軍が投入されれば殺戮(さつりく)になる。はやるな」と説得。若者も従った。指導者は次々に逮捕される。とりわけ「日本人弁護士」への追及は厳しかった。拷問であばら骨が折れた。彼らは反乱者の名簿を欲しがったが、頑として口を割らなかった。「死ぬのは私一人でいい」
3月13日、公園に引きずり出される。手を縛り目隠ししようとした兵士に『そんなことは必要ない。私には大和魂の血が流れている』と一喝した。最期に日本語で『台湾人、バンザーイ』と叫んだ。今、徳章は貧窮の身から台湾トップになった頼清徳を称(たた)えていることだろう。
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