-学校の今昔-
長沼小学校 その4(昭和時代)
太平洋戦争が始まった昭和16年、学校名は「長沼国民学校」となり、学習内容や学校行事は戦争に関わるものが多くなりました。
戦争が激しさを増し、東京をはじめ大都市への空襲も増えると、子どもたちを地方に集団で避難させる学童疎開が始まりました。長沼地域にも昭和19年8月に、東京都荒川区の第五日暮里国民学校の3~5年生167人と、教師4人が疎開しています。
長沼町方部旅館組合の資料によると、児童は満月館や藤野屋など町内5つの旅館に分かれて宿泊し、学校の講堂で授業を受けました。講堂には暖房設備がなかったため、冬は旅館で学習しました。また、畑を2カ所借りてカボチャやサツマイモ、ジャガイモなどを育て、たんぱく源としてウサギを飼育するなどして、食糧不足を補いました。
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