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姉妹都市 福井県あわら市を紹介!

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茨城県下妻市

福井県あわら市と下妻市が平成27年11月16日に姉妹都市を締結して8年が経ちますが、これまでさまざまな交流が行われてきました。そこで、どうしてあわら市と姉妹都市を結ぶことになったのか、両市の関係について歴史的背景をまじえながら、今月号から3か月にわたりご紹介していきます。
今月3月16日には、北陸新幹線が敦賀駅(福井県)まで延伸開業し、東京から乗り換えなしで「芦原温泉駅」(あわら市)へ行くことができます。あわら市の魅力もご紹介していきますので、ぜひ、北陸新幹線でお出かけになりませんか。

■紹介
姉妹都市締結までの経緯
戦国時代末期の戦国武将の多賀谷氏が縁で、下妻市とあわら市は姉妹都市の盟約と災害時相互応援協定を取り交わしました。
下妻の地を治めていた多賀谷重経(しげつね)の嫡男として、1578年多賀谷三経(みつつね)は生まれました。1600年の関ヶ原の戦いにおいて、三経は仕えていた徳川家康の次男・結城秀康が、上杉景勝の南下を抑える重要な役割を担っていたため、対上杉氏の先陣として、現在の栃木県大田原市に出陣しました。
関ヶ原の戦い後、三経は、結城秀康が現在の福井県福井市へ転封するのに従い、現在のあわら市に領地を得ました。1607年、彼の地で亡くなった三経の亡骸は、あわら市の専教寺に葬られ、そのお墓は現在でも地元有志による「多賀谷左近三経公奉賛会(ほうさんかい)」によって護られています。
一方、下妻でも地元有志である「多賀谷時代まつり実行委員会」が、かつて下妻市が城下町として栄えた歴史や文化を守り、後世へ引き継いでいこうと、毎年4月に多賀谷城跡公園において「多賀谷時代まつり」を開催しています。
多賀谷時代まつりでは、甲冑姿の武者行列や川越藩火縄銃鉄砲隊保存会による砲術演武が披露され、時代絵巻のような華やかさです。この時代まつりに、あわら市の奉賛会が訪れるなど、両市の市民が交流を深めてきました。こうしたことがきっかけとなり、さらなる交流を深めるため姉妹都市を締結するに至りました。

■戦国武将多賀谷氏について
第一回~多賀谷氏が下妻にお城を構えるまで~
3か月にわたって歴史を紹介します!
『多賀谷系図写』(元禄家伝文書)では多賀谷氏は桓武平氏であり、相模国金子に居住していた金子十郎家忠という武士が、鎌倉幕府の御家人として源頼朝から武蔵国騎西荘を与えられ、その子家政が居住地の郷名多賀谷を名乗ったことになっています。
しかし、「武蔵七党系図」によると、野与光基がはじめて多賀谷を名乗り、金子家政はその家を継いだことになっています。この点も問題ですが、一般的に多賀谷氏は、武蔵国多賀谷郷(現、埼玉県加須市内田賀谷付近)を本貫とする鎌倉御家人と考えて宜しいのではと思われています。
その後、多賀谷氏が治めていた多賀谷郷が康暦二年(一三八〇)に起った小山義政の乱の結果、足利氏満(二代鎌倉公方)より結城直光に恩賞として与えられたことから、多賀谷氏は結城氏の家人となったと伝えられます。
時は下り、永享十年(一四三八)、鎌倉公方足利持氏が室町幕府六代将軍足利義教に反抗しました。その際、関東管領上杉憲実が幕府の味方をし、持氏と対立(永享の乱)、翌、永享十一年(一四三九)持氏が自害しこの乱は終結しましたが、その翌年、永享十二年(一四四〇)自害した持氏の遺児であった安王丸、春王丸兄弟を結城氏朝が結城城に迎え、足利幕府軍十万余の軍勢と戦いました。結城家の家臣であった多賀谷氏も結城氏とともに幕府軍と戦いましたが、嘉吉元年(一四四一)、結城城が落城。結城氏朝をはじめ多賀谷彦太郎ほか、結城、多賀谷一族主従は悉く戦死し、安王丸、春王丸は幕府軍の捕虜となって京都へ護送される途中、美濃国垂井で殺されました。これが世にいう「結城合戦」です。
安王丸、春王丸の弟に、万寿王丸(足利持氏の子)がいました。永享の乱後、万寿王丸は、信濃国に身を潜めていましたが、文安四年(一四四七)、鎌倉に復帰し、その二年後、宝徳元年(一四四九)、足利成氏(万寿王丸)が鎌倉公方に就任します(諸説あり)。この成氏の公方就任にともなって、幕府により結城氏の再興が許されることになり、結城氏朝の末子、成朝が結城家を再興しました。諸説ありますが、成朝は「結城合戦」の時にまだ三歳でありましたが、家臣多賀谷彦次郎が成朝を懐に隠し、佐竹氏を頼って落ち延び、結城家の血脈を護った(『鎌倉大草紙』)、とされています。この結城氏の再興により、多賀谷氏も復帰します。
享徳三年(一四五四)、関東管領上杉憲忠が、対立していた鎌倉公方足利成氏の命を受けた結城成朝に従った多賀谷氏家(下妻多賀谷氏初代)、高経(一説に朝経)(下妻多賀谷氏二代)によって討たれました。『鎌倉大草紙』によると、この功績により多賀谷氏は鎌倉公方足利成氏より「多賀谷」の名字と常陸国に所領を与えられたといいます。また、『多賀谷家譜』では、「三之褒賞」として、多賀谷家の紋(瓜に一文字)、関東諸士の会合時における特別席、常州河内郡(関三十三郷=関郡)が与えられた、としています。
このような中、康正元年(一四五五)下妻城(別名:多賀谷城)の築城が多賀谷氏家によって開始され、寛正二年(一四六一)完成したといわれています。これが事実とすれば、下妻城築城は、氏家が関郡を与えられた直後となります。以上が、多賀谷氏が下妻にお城を構えるまでの経緯です。(次号に続く)

■紹介
歴史の教科書に出ている人物と多賀谷三経の関係図

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