3月16日に北陸新幹線が福井県まで延伸したことから、あわら市をはじめ北陸地方は大変な盛り上がりをみせています。今月号では、姉妹都市締結後の交流事業についてご紹介してまいります。
■紹介あわら市ってこんなまち
福井県北部に位置し、石川県に隣接するあわら市は、海あり、湖あり、温泉ありの魅力あふれる観光地です。丘陵地では、肥沃な土地を活かしてフルーツや野菜の栽培も盛んです。
東京⇔芦原温泉間は、北陸新幹線で最速で約2時間50分!金沢からは22分とアクセスも良好です。
美味しい北陸の食巡り、温泉巡りに出かけてみませんか。
■紹介あわら市との教育交流事業
姉妹都市締結後、平成29年度から本市とあわら市の中学生同士による教育交流が行われています。1年交代でお互いの市を訪問し、まちの特徴や中学校の紹介、グループ協議を通して意見を交わすなど親睦を図っています。コロナ禍では、オンラインによる交流を実施してきましたが、今年度、訪問による交流が再開しました。
生徒たちは、互いのまちに共通点があったり、学校生活における課題も似ているものが多いことを知ると、親しみを感じ、すぐにうちとけあいます。事業を通してお互いに刺激し合い、視野が広がるきっかけの場となることが期待されます。
■戦国武将多賀谷氏について
第二回~下妻多賀谷氏の分裂と多賀谷三経
多賀谷三経を語る上で、父・重経の事を理解する必要があります。いわゆる下妻多賀谷氏は、初代多賀谷氏家から、高経(朝経)、家植(おそらく基泰)、家重(おそらく光経)、重政(朝経)、政経と続き、福井県あわら市とのゆかりのある多賀谷三経の父・重経へと繋がります。
天正四年(一五七六)、多賀谷政経が死去し、その子重経(尊経)が家督を継ぎました。多賀谷重経は、天正五年(一五七七)に大宝八幡宮本殿を造営。またこの年、後北条氏による結城晴朝・山川晴重への攻撃が行われた際に重経は、結城・山川氏を援護し、結果、後北条氏の侵攻を阻止しました。
同年、織田信長は東国の領主に対し、関東に出兵する意向を示しました。これは、後北条氏の攻勢が強まる中で、北関東の領主が信長の関東出兵を望んだ結果でした。北関東の領主は独自に反後北条氏領主連合を形成し後北条氏に対抗、さらに織田政権と結ぶことでこれを抑えようとしました。このような動きの中で、多賀谷重経は織田信長に駿馬を送り、誼を通じています。
天正八年(一五八〇)、常陸南部への勢力拡大をはかる多賀谷氏の前線基地であった谷田部城が北条氏照・土岐・岡見連合軍(南方軍)によって攻略されましたが、駆けつけた多賀谷重経軍の攻撃で南方軍は敗走。再度、多賀谷氏が谷田部城を奪還します。また、この年、重経は娘を佐竹義宣に嫁がし、後ろ盾の佐竹氏との関係を深めていきました。
天正十年(一五八二)六月、織田信長が「本能寺の変」で討たれ、同年十月北条氏直は徳川家康と和議を結びました。先にも述べましたが、北関東の領主は後北条氏と対抗する上で織田信長と結びついていました。そこで北関東の領主は、織田信長と同盟関係にあった徳川家康とも結んでいたとみられます。しかし後北条氏は、徳川氏との同盟をもって、北関東侵略の歩調を速めました。そのため、北関東の領主は、後北条氏への対抗上、徳川・北条の背後に位置する羽柴秀吉と結びつかざるを得ませんでした。この羽柴秀吉に対し、多賀谷重経は天正十一年(一五八三)、書状を送って親交を通じています。
しかし秀吉と結んだとはいえ、未だに秀吉と家康は対立関係にあり、関東に直接影響力を及ぼすには至ってはおらず、北関東の領主と後北条氏との抗争が激化していきます。
羽柴秀吉の関白就任後、天正十四年(一五八六)、秀吉は北関東の領主に対して「関東停戦令」とも考えられる書状を送りました。この年、多賀谷重経は、小張城(つくばみらい市)を攻略、翌年には板橋城(同市)、足高城(同市)を相次いで攻略しました。同年、豊臣秀吉は、多賀谷重経にいわゆる「惣無事之義」の書状を送ったとされます。この「惣無事」令(と考えられるもの)のもとでは、関東・奥羽における大名領主間の抗争はすべて私的な戦争とされ、即座に停戦すべきものとされましたが、天正十六、翌十七年と、多賀谷氏と岡見氏との抗争が続きます。そして、この天正十七年の時が、多賀谷氏の勢力範囲が最大であった時期と考えられています。
天正十八年(一五九〇)、後北条氏が「惣無事」令などを無視した行動を行い、秀吉が激怒、いわゆる「小田原征伐」を決行しました。この年の五月、重経は小田原に参陣、秀吉に謁見したといいます。六月には、石田三成の指揮に従って忍城(埼玉県行田市)攻撃に参加しました。七月に小田原城、忍城が開城し、後北条氏は滅亡します。この年の八月に重経は秀吉より、知行安堵を受けたと思われますが、その領地は、秀吉の「惣無事」令の発令の時点を基準として決定され、多賀谷重経が豊臣政権から安堵された所領はほぼ六万石であったと推定されます。
また、多賀谷氏は同年、下妻多賀谷氏(佐竹義重四男宣家が多賀谷重経の婿として下妻に入部し、多賀谷氏の継嗣となる)と、太田多賀谷氏(多賀谷重経の長男三経が重経から多賀谷領のうち岡田・豊田・下猿島郡などの領地を分与され結城氏の与力となる)に分裂しました。
天正二十年(=文禄元年(一五九二))、豊臣秀吉は多賀谷重経が文禄の役に参陣しなかったことから、重経の居城の破却などを命じました。しかしながら、その背景は、重経が文禄の役に参陣しなかったことにとどまらず、前述した、秀吉の「惣無事」令を無視した重経の軍事行動があったと考えられています。(次号につづく)
■第15回多賀谷時代まつり(主催:多賀谷時代まつり実行委員会)
開催日時:令和6年4月28日(日)午前9時30分から
場所:多賀谷城跡公園
勇壮な武者行列や火縄銃による演武が実施されます。
ぜひ、ご観覧ください。
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