【ミステリーとロマンあふれる 古代の五霞】
歴史が語られることもなく静かに眠り続ける五霞の町
縄文から江戸時代にかけ、いつの時代でも五霞町は関東の歴史の真ん中にいた
◆縄文時代
港の集落、海陸交易の起点・原宿台(冬木)
北海道から沖縄まで、縄文人が日本中を自由に往来していた頃、五霞は海辺であった。
・潮の香と潮騒で目覚めた青年は今日も刈りに出る。地中に埋もれていた彼が目覚めたのは、3200年後の五霞。でも、彼は今もひとりで公民館に眠っている。
・縄文後期、突如、「貝輪」の一大ブームが起こる。中でも美しい輝きのオオツタノハ貝の貝輪は珍重され、東日本一円、遠くは北海道からも出土しているが、その出土数では、原宿台(五霞)が東日本一である。縄文人は、何の為に危険を冒し、南海の孤島から『オオツタノハ貝輪』を原宿台へ運んだのだろうか?
◆古墳時代
他とは異なる古墳文化が花が開いた川妻地区
寒冷化や利根川等の大河による沖積平野が拡大し、約1500年前には、幸手は陸地になっています。
『寺山遺跡』は古墳時代中期、約1600年前の遺跡。
・土師器の他に勾玉、有孔円板などの石製模造品(鏡)が出土しており、祭祀を行っていた事がわかりました。
・古墳の周溝から出土した折り曲げられた直刀は、出土例が全国的にも少なく、茨城県域では初めての出土であります。
・また古墳からは、東海地方産の須恵器も出土しています。
『穴薬師古墳』は6世紀前半(継体天皇の頃)、約1400年前の古墳時代後期の造営で、この地方の豪族の墓と思われます。
・古墳の中にある石室は特殊な構造を持ち、関東に例がない学術上大変貴重なものです。
○地元では「奈良時代の貴族が古墳を作って隠れ住んでいた」と伝わっており「村人が、明朝何人前かの椀を貸して下され」とお願いすると「翌朝、古墳の入口に揃えて置いてくれた」と言う、民話が川妻地区に残されています。
・この話は、江戸時代、医師の赤松宗旦が描いた『利根川図志』にも、川妻の『隠れ里膳椀伝説』として登場しています。
お問い合わせ:教育委員会 生涯学習G/五霞町の文化財を守る会
【電話】84-1460(直通)
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