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古河歴史見聞録

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茨城県古河市

■春王・安王の死 古河公方の誕生前史(上)
◇「結城合戦絵詞」の詞書
「鎌倉殿(かまくらどの)の次男三男の若君に春王殿、安王殿とて兄弟二人ましましけり。めのと賢(かしこ)くして下野国(しもつけのくに)へ下したてまつり、日光山の衆徒を頼みて住ませ申たてまつりけり。その御姿、人にすくれて、御心、誠に優にましまして詩歌の道にも達したまへは、一寺の寵愛(ちょうあい)、近山の賞翫(しょうがん)、この君にぞ極まりける」
この引用は「結城合戦絵詞(ゆうきかっせんえことば)」という国立歴史民俗博物館に所蔵される絵巻、その詞書(ことばがき)冒頭の一節です。この絵巻は、15世紀に成立していたといい、結城合戦を描くものの中で最も古い成立年代を有する貴重作品で、国の重要文化財にも指定された逸品といってよいでしょう。
幅380センチメートルほどのこの絵巻には、4代目鎌倉公方(くぼう)の足利持氏(もちうじ)とその補佐役である関東管領(かんれい)上杉憲実(のりざね)の対立に端を発して永えい享きょう10(1438)年に発生した戦乱である「永享の乱」、室町将軍6代目の足利義教(よしのり)の命により討伐の対象となった持氏が切腹する様子、また難を逃れた持氏の次男・三男である春王丸と安王丸におけるその後の顛末(てんまつ)が描かれています。

◇伝統的豪族層の旗頭
ところで、引用した詞書はごく一部であるものの、春王丸と安王丸、すなわち討ち取られた鎌倉公方足利持氏の次男と三男にあたる若君に対する期待の念をかいま見ることができるでしょう。
曰(いわ)く、持氏遺児に、春王丸・安王丸という兄弟の若君がいらっしゃった。鎌倉を退去した春王丸・安王丸は、乳母の機転により修行に励む日光山の衆徒に取り紛れて隠れ住むことになった。その容姿はもとより、お心も人並み優れていて、その上、詩歌の道にも達せられていたので、そのカリスマ性により瞬く間に寵愛と賞翫を得るのであった…。
いささかの誇張があるにせよ、鎌倉公方足利氏というブランド力は、小山・結城・宇都宮・千葉・那須・小田(おだ)氏といった伝統的豪族層にとって必要不可欠となっていたのです。

◇春王丸・安王丸にかける希望
足利持氏、そして嫡男義久の戦死により、鎌倉公方は不在となりました。そうした中、関東管領上杉氏の権力が強大となり、ときに所領を奪われるなどの脅威に晒(さら)されるようになった伝統的豪族層たちが、持氏の頃のような鎌倉公方の復活と回帰による秩序を期待することは、当然の帰結であったのかもしれません。
永享12(1440)年3月、下総国結城の城主、結城氏朝(うじとも)・持朝(もちとも)父子を筆頭に持氏の残党たちは、持氏遺児の春王丸・安王丸を擁立して、ついに室町幕府に対する反乱を引き起こします。この戦いは歴史上に「結城合戦」と刻まれており、のちに古河公方誕生に繋がる重要な合戦となりました。その顛末と古河公方誕生への経緯など、ここからが肝心なところですが、遺憾ながらすでに紙幅に余裕がありません。この続きは次号にて、あしからずお許し願い上げます。
なお「結城合戦絵詞」は、10月7日から当館初お目見えとなります。企画展「古河公方足利氏」、ご観覧くださるようお願いいたします。

古河歴史博物館学芸員 永用俊彦

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