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古河歴史見聞録

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茨城県古河市

■先祖の旧地・由緒の人々をたずねて
~山川朝顕・朝周の帰参運動~

○本家と分家の再会は突然に
「お久しぶりでござる!」
『えッ?…ご浪人様、お会いしたことがありましたかなァ??』
「あなたの本家でござるよ! いやはやァ、180年ぶりでござるなぁ!」
『それはァ…あまりにも…久しぶりすぎる!』
寛政4(1792)年、本家の末裔(まつえい)を名乗る浪人山川小四郎朝顕(ともあき)が子ども2人を連れ、恩名村(現・恩名)名主山川又兵衛延晴(のぶはる)を突然訪れます。「本家は確か越前福井藩重臣のはずだが? いつ浪人に??」と又兵衛は驚くばかり。朝顕の話によると「祖父内膳朝音(ないぜんともおと)が病気療養の休役中、体力回復のため鳥狩(とがり)に同行したことで謹慎となり『高禄重役の身でありながら…。』とおのれの行動を恥じ、藩を退散、浪人。朝音・朝暁(ともあき)・自分の三代、江戸に住み武芸指南をしていたが、今回大火に遭い、家財を失ったため、先祖の旧地山川を訪れ、遠祖の菩提寺長徳院(ぼだいじちょうとくいん)で恩名村に同族がいることを聞き訪ねた。」とのこと。
ところで山川氏は、鎌倉時代、源頼朝に仕えた結城朝光(ともみつ)の子重光(しげみつ)を初代とし、以来400年、幾多の動乱を乗り切り、山川綾戸(あやと)城を居城に、山川庄(現・結城市南部、古河市尾崎・恩名など)を堅守。慶長6(1601)年、前年の関ヶ原の戦いの論功行賞による結城秀康(徳川家康次男。結城晴朝(はるとも)養子)の越前北庄(きたのしょう)(現・福井市)転封(てんぽう)に、山川菊松丸(きくまつまる)(11歳)が重臣筆頭として従い、山川の地を去りました。
又兵衛の恩名山川家の祖は恩名女人堂砦(にょにんどうとりで)を守った靱負朝次(ゆきえともつぐ)で、朝顕の祖菊松丸の叔父に当たり、その後見役として一緒に越前へ移りましたが、元和(げんな)2(1616)年、恩名村に残した妻子を迎えに来て、越前には戻らず帰農、代々名主役を務めました。

○本家の福井藩帰参運動
又兵衛は小四郎一家を自宅に引き取り、朝顕の念願である越前福井藩帰参のため尽力します。
結城秀康ゆかりの結城町孝顕寺(こうけんじ)に助力を願い、1年後、朝顕はタイミングよく孝顕寺に立ち寄った福井藩用人大道寺孫九郎と対面、「帰参願」と「由緒の証拠書類写し」を渡すことに成功。これはすぐに帰参できる!と思いきや、その後進展なく、又兵衛の人脈で信州善光寺・上野護国院・江戸山王別当観理院(かんりいん)へ助力を願いますが結果がでません。気が付けば17年の歳月が過ぎ、ようやく文化11(1814)年、朝顕の子朝周(ともちか)が朝音退散の罪を赦免(しゃめん)され、年頭・暑中・寒中御機嫌伺いなどの御出入りを許されます。朝周は藩主松平治好(はるよし)に拝謁(はいえつ)しますが、完全な帰参は「追々沙汰する」となり、江戸や越前へは移らず、恩名村に住み続けました。
藩への御出入りが許されたことで、朝音の弟朝高(ともたか)の子孫である藩士山川登弥太(とやた)と朝周との交流が始まり、登弥太は書状の中で「お互い遠く離れており、あなたに直接お会いできていないのがとても残念です。先祖の物語を語り合いたいので、ぜひ福井へお越しください。」と依頼。「あなたとは親族なので、とても懐かしく感じられます。」と心境を述べています。
山川朝顕・朝周の事例は、大火で家財を失い「先祖の旧地」を訪ねることにより、大昔に別れた分家と再会し、力を合わせて旧藩復帰に成功した好例です。

三和資料館学芸員 白石謙次

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