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古河歴史見聞録

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茨城県古河市

■辰年にちなんで~飯沼新田開発~
○龍にまつわる信仰
令和6(2024)年も1カ月が過ぎましたが、今年の干支(えと)は甲辰(きのえたつ)に当たります。辰=龍(りゅう)は、十二支の中で唯一想像上の動物ですが、中国では常に水中に棲(す)み、必要があれば天空に飛翔(ひしょう)することができる霊力を持つとされています。そこから天と深い関係を持つ皇帝と強く結びつき、権力の象徴とされました。また、仏教を守護する八部衆の一つとされていた龍王とも結びついたといわれています。
日本でも海の世界、すなわち水との関係が深く、雨を降らせる能力を持つと考えられ、そこから稲作等の豊穣(ほうじょう)や富貴、雨乞(あまご)いなどと結びついていきました。また、清水が湧くところや沼・池の淵など清浄な場所には龍神が棲むと考えられてきました。

○辰年の主な出来事
過去の辰年に起きた出来事としては、まず慶応4年=明治元(1868)年の明治維新が挙げられます。この時には江戸幕府崩壊に伴い、旧幕府軍がこの地域を通過して大きな混乱をもたらしました。また、明治37(1904)年に始まった日露戦争も辰年に起きた大きな出来事の一つです。

○飯沼新田開発
辰年にまつわる出来事の中で、今回は江戸時代中期の飯沼(いいぬま)新田開発を取り上げます。飯沼新田開発は、享保7(1722)年8月、沼周りの村々が連名で開発願を江戸幕府に提出し、2年後の享保9(甲辰)年5月に幕府から許可が下りたことで、具体的な事業が動き出しました。
現在の古河市東部を縦断する長大な水田(現南総土地改良区)は、江戸時代中期までは飯沼と呼ばれた沼で、周辺の村々では漁労をしたり、豊富な水草などを肥料として活用したりするなど、地域住民の生活と深く関わっていました。
飯沼は、このように漁労や水資源などで地域と関わる一方で、江戸時代の早い段階から干拓計画がたびたび持ち上がっていました。それでも周辺の村々には開発に消極的な村民も多く、なかなか実現には至りませんでした。
しかし享保7年7月、江戸幕府による諸国新田開発奨励の高札が江戸日本橋に建てられたことによって、事態が大きく変わっていくことになります。幕府が掲げた新田開発奨励政策に飯沼開発計画が結びつけられ、さらに幕府勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)・井沢弥惣兵衛(やそべえ)(為永(ためなが))以下の幕府関係者の積極的関与により、それまでの地元の利害対立を乗り越えて事業が具体化していきました。事業の中心的役割を担った井沢は、元紀州藩士で八代将軍吉宗に従って幕府の役人となり、各地で河川工事や新田開発に取り組みました。
広大な飯沼の干拓事業はさまざまな困難がありましたが、井沢をはじめとする幕府役人や地域住民の努力により、享保12(1727)年ごろには総面積1500町歩、総石高1万4400石の水田へと生まれ変わります。その一環として、長左衛門新田も新たに誕生しました。
こうして開発された飯沼新田も、その後長く水害に悩まされることになりますが、地域住民の不断の努力によって「美田三千町歩」と称される水田になったのでした。

三和資料館学芸員 峯照男

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