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古河歴史見聞録

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茨城県古河市

■名前が刻まれた紡錘車
~市内の遺跡発掘調査出土品の紹介~
これまでに市内で行われた発掘調査では、多くの遺物が出土しています。今回はその中から、東(ひがし)の門西(かどにし)の門城跡(かどじょうせき)で出土した、平安時代の人名が刻まれた紡錘車(ぼうすいしゃ)について紹介します。

◇紡錘車とは
麻などの繊維から糸を作る際には、必要な長さを確保し、太さや強さを均一にする作業が必要になります。その際に使用される道具が紡錘具(ぼうすいぐ)です。紡錘具は軸に当たる紡茎(ぼうすい)と錘(おもり)などの役割を果たすこま状の紡錘車から成り、軸は木質のためほとんど残存していません。一方、紡錘車はその役割から重さが必要となるため石や土、鉄等で作られており、奈良・平安時代の集落跡から数多く出土しています。このことから、集落内で盛んに糸や布の生産が行われていたことが推定されます。

◇東の門西の門城跡の紡錘車
東の門西の門城跡では、県の事業に先駆けて平成30年度から継続して発掘調査が行われています。その結果、遺跡名である戦国時代の城に関わる堀跡などのほか、古墳時代から平安時代(1500~1000年前)の大きな集落跡が存在していることが分かりました。
名前が刻まれた石製紡錘車は、平安時代(9世紀末頃)と考えられる遺構から出土しています。石製紡錘車の側面には、上下方向の線と共に『大田部人万呂(おおたべのひとまろ)』『大田部(おおたべの)□万(ま)』(□は不明)と2人の人名と見られる文字が浅く刻まれていました。

◇本田遺跡の紡錘車
同様に文字が刻まれた紡錘車を市内で探してみたところ、五部の県立三和高校周辺に広がる本田(ほんでん)遺跡の発掘調査で出土した石製紡錘車の例がありました。
この石製紡錘車は、新しい時期の遺構に混ざるような形で出土しており正確な時期は特定できませんが、周囲で確認された遺構から、平安時代の集落で使われていたと推測されます。紡錘車の側面には『物マ大万見有瓦(もののべのおおまげんたもが)』と刻まれており、報告書によると「瓦」とは紡錘具を示し「物部大万(もののべのおおま)(呂(ろ))が現在所有している紡錘具」という意味になると考えられています。

◇文字が刻まれた意味
では、なぜ紡錘車に名前が刻まれたのでしょうか。その理由を考える上で、同じ時期に土器に墨で文字等が書かれた墨書(ぼくしょ)土器が参考になります。研究によると、集落跡から出土する墨書土器は、主に所有等を示すものと祭祀(さいし)に関わるものの2つの理由が考えられるそうです。
本田遺跡の紡錘車は、人名と品名が刻まれており、まさに所有を示す良い例といえます。しかし、東の門西の門城跡の紡錘車は、単純に所有を示すだけとは考えにくい点があります。なぜ2人の名前が刻まれたのか、2人はどんな関係性か、共有していたのか、それとも譲られたのか等、いくつもの疑問点が浮かぶのです。紡錘車をよく観察してみると、別面に記号や呪符のような刻みが確認できるため、祭祀に使用された可能性も大いにあります。
このように、まだ不明な点も多く、今後も類例を探しながら調査をしていく必要がありそうです。また、市域について記録した同時期の文献資料がほぼない中で、当時住んでいた人名が判明する資料が出土したことは、地域の歴史を考察していく上で大変貴重な資料になるといえます。

文化振興課学芸員 大久保芳紀

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